Book of Ti’ana 第2章─石と塵と灰

第二章 | 石と塵と灰

岩と塵で描かれた奇妙な円の中央に立ち、アナは目を細めた。
背が高く、痩せ気味な十八歳の少女。日に焼けてほとんどブロンドに見える鳶色の髪を首の位置でまとめている。父親と同じように、長く黒い砂漠用マント。腰には幅広の革製ツールベルト、背中には革のナップサック、足元はレザーブーツ。
左側で、彼女の父親がゆっくり円にそって歩いていた。日光を遮るためのつばの広い帽子ハットを持ち上げ、訝しげな顔をしている。
このサークルを発見したのは数日前、休火山の南西区画の砂漠を調査したその帰り道だった。
「で?」
アナは父親のほうを振り返った。
「なにこれ?」
「さあな」
父親はハスキーな声で返事した。
「誰かさんが延々、石ころを大きさごとに分類して完璧な円形に並べてこいつを作り上げたか、さもなきゃ…」
「さもなきゃ?」
父親は首を振った。
「誰かがでっかいふるいにでもかけたんじゃねえか?下からな。ハハハ」
「…それで結局、原因は?」
「さっぱりわからん。調査屋やって五十年間、妙なものはいろいろと見てきたが、こんなのは初めてだ」
アナは歩数を数えながらサークルを歩き、頭の中で計算した。
「直径八十歩。だいたい八百平方フィートね。作られたものにしては大きすぎ」
「このあたりの部族が総掛かりでやったんなら、まあ」
「うん、でもすごく…自然に見える。すっごく大きな水滴が空から落っこちてきたみたい」
「それか、ふるいだな」
父親はしばらく目を細めて、石の配列パターンを足で確かめた後、再び首を振った。
「振動だ。地下からの」
「火山?」
「いんや、違うな。地震じゃない。地震は岩にヒビを入れたり割ったり沈めたりはするが、こんなふうに大きさ別に並べたりはしねえ」
しばらくしてアナは言った。
「父さん、疲れてるんじゃない?ちょっと休む?」
いつものアナは父親のものの見方について口を出すことはしないが、声には若干心配そうなトーンが含まれていた。最近の父は確かに疲れやすく、昔ほどの元気を感じない。さすがに年だろうか。
父親は返事をしなかったが、アナは別に気にしなかった。もともと口数の多い人ではない。
アナはもう一度見回した。
「いつからここにあったのかしらね?」
「ここは囲まれているからな」
父親は周りの様子を確認して言った。
「砂もそんなに動かねえ場所だ。だが、となるとかなり長いことあったんじゃねえか。五十年かそこらは経ってるかもな」
アナは頷いた。いつもならサンプルを採取するところだが、ここは岩自体がどうこうではなく、その並び方がおかしいのだ。
「いちど帰って、明日朝また来ない?」
「そうだな、そうするか。ゆっくり水風呂に浸かりてえ」
「イチゴの生クリーム添えも、でしょ?」
「おお、そんでグラス一杯のブランデーがありゃ完璧だ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
「なにか作れるかどうか見てみるわ」

冗談で「ロッジ」と父親が名付けたそれは、彼がヨーロッパから戻ってきて子供時代を過ごした狩猟小屋とは別物で、岩壁と岩棚の間に作られていた。深さ六十フィートほどの位置に裂け目を横断するように架かっている細い岩の橋は、十五年ほど前、父が切り出して架けたものだ。アナは三歳になったばかりだった。
「ロッジ」の外壁は手掘りの岩で、表面はなめらかに磨かれており、曲線の美しい小さな木のドアが細い橋の終点、白い岩に埋め込まられるようにつけられており、細長く岩をくり抜いた、天井の低い部屋が見えている。
細長い部屋の他にも四つの小部屋がある。うち三つは裂け目の右壁側にあり、生活房として使われている。残りひとつは左壁側で、実験や作業のための部屋だ。
アナは部屋の奥にある大きなソファに父親が座るのを手助けした後、低い位置にある石の通路を通って先の厨房へ向かうと、しばらくして冷たい水を持って戻った。
「おいおい、もったいない。いらんよ」
「いいから飲んで。今夜泉で汲んでくるから」
父親はためらったが、申し訳なさそうにゆっくり飲み干した。
アナは父親がどれほど疲れ、弱っているかを見て取った。全く、辛いとは一言も言わないんだから…。
「明日は休んで頂戴。私は一人で大丈夫だから」
父親は気に入らないようだったが、それでも不承不承、頷いた。
「報告はどうする」
「遅れたら、遅れたときよ」
アナはぞんざいに言い放った。
「約束したんだぞ」
「具合が悪いんでしょう。彼もわかってくれるわよ。人は病気になるものよ」
「ああ、そして人は食わなきゃ生きていけない。それがこの世ってやつだ、アナ」
「そうかもね、でも私達は生き延びる。そしてあなたは病気。自分を見てみなさいよ。休みが必要だわ」
父親はため息をついた。
「わかったわかった…だが一日だけだぞ」
「オッケー。じゃあベッドに入って。夕食の頃起こしに行くわ」

父親を起こしに行く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
アナは父の部屋の窓辺に座り、星がゆっくりと動くのをしばらく眺めていた。
振り返ると横になっている父が暗い部屋の中で黒い影のように見える。
「気分はどう?」
「ちょっとマシになった。もう疲れは取れたよ」
アナは壁の棚から水差しを取り、持ってきた夕食に今日二杯目の水を添えた。先程、父親が眠っている間に裂け目の底まで降りて水差し二杯分の水を汲んできたのだった。大切に飲めば数日はもつだろう。
父親は大事そうに一口飲むと、再びベッドに沈み込んだ。
「夢を見ていたよ」
「どんな?」
「母さんの夢だ。最近ずいぶんお前は彼女に似てきたと思ってな」
アナは黙っていた。亡くなってもう六年たつが、記憶の中で話す母は、まだあまりにもはっきりしていた。
「明日は私も出かけるのはよそうと思う」
アナは一旦言葉を切り、続けた。
「先週父さんが始めた実験を終わらせようと思って」
「そうか」
「それと…何かあった時に近くに居たほうがいいと思って」
「俺は大丈夫だよ。疲れてただけだ」
「ええ、でも…」
「まあそうしたけりゃ、そうしろ」
「実験はどうする?」
「やることは解ってるだろ、アナ。もう俺と同じくらいうまくやれる」
「まだまだよ」
アナは微笑んだ。
その後もアナは暗く静かな部屋の中で、父親の穏やかないびきを聴いていた。
アナは台所へ移動した。窓からは空の低い位置に月が昇っているのが見える。タンブラーを片付けて、アナは窓からぼんやりと砂漠を眺めた。父は本当に疲れているだけなのだろうか。もし何かの病気だったら?
ここは最寄りの街、タジナーからも百マイル以上離れている。もし病気だったら…父は砂漠を横断することはできないだろう。父を荷車にのせて引いていく?無理だ。真夏の砂漠の熱さには耐えられないだろう。
ここで、持っているものだけでなんとかするしかない。
アナは思考に沈み込んでいたが、むりやり引っ張り上げた。ふさぎ込むのは良くない。
花。そうだ、花を描こう。
カンバスに花の絵を描き、入り口のそばに飾ろう。明日の朝、起きてきた父親によく見えるように。
そう考えると元気が出てきた。アナは作業部屋の父の道具箱からオイルランプを取り出し、火をつけてテーブルの向こう側に置くと、棚から絵の道具を取り出し、鼻歌を歌いながら絵を描くためのスペースを作り始めた。

アナ?
「なに、父さん?」
何が見える?
「見えるのは…」
アナは言葉を止めた。いつもの心の中のやり取りを一旦止めて、花崗岩のてっぺんから埃の舞う荒野を見渡した。夜明け前に起き出したアナは父の調査の続き、この乾いた荒野の区画マッピングを行っていたが、すでに日は高く昇り、そろそろ暑さが辛くなってきたところだ。羽織ったフードがまるで焼けるようだ。
アナは視線を落とし、呟いた。
「石と塵と灰」
このやり方は父から教わった。質問と回答。いつも、いつでも。目の前にあるものに集中し、見ること。そして物事の特徴をとらえること、それこそが知識を形作る。しかし今日のアナは正直それどころではなく、集中することができなかった。
ノートブックを閉じ、鉛筆をスロットに差し込むと父のコンパスと一緒にナップサックへ放り込む。
一週間が過ぎ、まだ父はベッドから起き上がれないでいた。何日も熱に浮かされ、アナはそのそばに付き添い、貴重な水で彼の額を濡らした。
熱はやがて引いたが、ふたりともずいぶん消耗していた。アナはほぼ一日眠り、期待を胸に目覚めたが父はほとんど良くなっていないように見えた。熱が父からなにかごっそり奪っていったように、顔はやつれ、呼吸は不安定だった。
なんとか食べさせて見守っていたが、正直アナにできることは、待つこと以外にほとんどなかった。その状況に耐えられなくなり、なにか他に役に立つことができないかと出てきたものの、やはり集中できなかった。
ロッジはそう遠くない。ここから一マイルもないだろう。そういう場所を選んだ。それでもこの太陽の下、砂漠を歩いて戻るのは大変だ。
アナはロッジを見下ろす尾根に登り、不意に怖くなった。それほど遠くへ来ては居ないが、もし父が私を必要としていたら?そこに居ない私の名を呼んでいたとしたら?
アナは急いで斜面を駆け下りた。理由のない恐怖が大きくなり、走って細い岩の橋を渡り暗い部屋へ滑り込むころにはそれは確信に近かった。
「父さん?」
ベッドは空だった。アナは荒く息をついた。眉から首へ、そして背中に汗が伝う。振り向くと、窓を通して砂漠が目に入った。
…もしかして外へ?私を探して?
アナは不安に襲われ、急いで部屋を出たところで物音を聞きつけて立ち止まった。右手からだ。
「父さん?」
作業部屋を覗き込むと、アナに気づいた父親は笑顔を返した。部屋を横切るように置かれている作業ベンチで、彼は自分の大きな革張りのノートを広げていた。
「良いぞ、アナ」
父は出し抜けに言った。
「アマンジラは喜ぶだろう。きっと良い値をつけてくれる」
アナは安堵して言葉が出ないほどだった。最悪な想像をしていたのだ。
彼はその気持をすべてわかっているかのように微笑んでいた。アナはそのまま近づいていって抱きしめたかったが、それは彼のやり方ではないことを知っていた。彼の愛し方はまるで鷹が雛に対するように、厳しく、距離をおいたものだった。それが母親という存在なしで彼らが生き抜いていくための唯一のやり方なのだ。
「アナ」
「うん?」
「絵をありがとうな。なんでわかった?」
「…何が?」
「これは俺の好きな花なんだ」
アナは微笑んだが、答えを口には出さなかった。
それは、母さんが教えてくれたのよ。

父親は日に日に回復し、少しずつ出来ることが増えてきた。一週間後にはベッドから起き上がれるようになり、作業場に顔を出せるようになった。そこでアナから完成した調査報告書を手渡された。
「よし、じゃあアマンジラに届けて来てくれ。期日どおりじゃなかったが、奴もとやかく云いはしないだろう」
アナは報告書を見つめて、言った。
「無理よ」
「なんでだ?」
「まだ本調子じゃないでしょう。道中で倒れてしまうわ」
「ああ、だから俺は行けない。道はわかるだろう。荷車もうまく扱える」
アナはかぶりを振った。確かにそうだが、言いたいのはそういうことじゃない。
「置いてはいけないわ。今はまだ」
父親は微笑んだ。
「大丈夫、大丈夫だ。料理も自分で作れるし、俺はそんなに水を使わない。お前が帰ってくるまでに、水差し二杯くらいありゃ十分だ」
「でも…」
「でもじゃない、アナ。アマンジラに報告書を渡さなきゃ、俺たちは報酬を貰えん。そしたら俺たちは何も買えなくなる。それに、タジナーで買ってきてほしいものもある。リストを作っといた」
アナは父を見つめた。そうと決めたら頑固なんだから…
「いつ出ればいいの?」
「今夜出ろ。日が沈んだらすぐにな。夜明けまでには旧火山あたりまで行けるだろう。あそこには裂け目があるから、そこで夜まで眠るといい」
それは今まで何度も繰り返し、体に染み付いたといっていいくらいのいつもの道程だった。
「心配じゃない?」
「もちろん心配さ」
父親は答えた。
「だがお前はタフだ、アナ。いつも言っているようにな。だが一つ、ジャーニンドゥ・マーケットの奴らには、ボられるなよ」
アナは笑った。たしかに彼らはいつも値段をふっかけてくる。
「水差しをいっぱいにしてくるわね」
父親は頷くと、何も言わず部屋の中へ引っ込んだ。
「タジナーへ行って、それから」
アナは手の中の報告書に目を落としてつぶやいた。
「父さんの言う通り、アマンジラさんが歓迎してくれるといいんだけど」

アマンジラはご機嫌だった。満面の笑みでアナを迎えた彼は、アナにローチェアに座るようすすめると机に戻り父の報告を読み始めた。
彼が様々な地図や図形の部分にさしかかったのを見て、アナは辺りを見回した。アマンジラの邸宅に入ったのはこれが初めてだ。いつもは父が報告に向かい、その間アナはオールドタウンの宿で待っていたからだ。
広い室内は白・クリーム色、赤やピンクに彩られた優雅な内装で、バルコニーへと続く大きなガラス張りのドアは開け放され、そこから差し込む明るい陽の光に満ちていた。床は厚手のラグ、壁にはシルクのタペストリー。アマンジラの後ろの壁には皇帝から直接賜ったという皇帝のポートレートが飾られていた。
すべてが莫大な富によるものであることを示している。
アナは再びアマンジラを見た。アナ同様、アマンジラもこの土地の出ではない。もともとは東からの貿易商人だったのが数年前にここに定住したらしい。それが今ではこの国のレベルで見ても有数の重要人物だ。
アマンジラの肌は夜のように暗く、黒というよりもはや青に近い。だが彼の特徴は奇妙なことに西洋的な、洗練された柔らかさを備えており、好戦的な見た目をした砂漠の民とは大きく異なっていた。
まるで鷹の巣に飛び込んだ一羽の鳩のようだ。
だが全てが見た目どおりとは限らない。この鳩は爪を持っていた。そしてその翼はこの乾いた砂の地すべてを覆うほどに大きかった。
アマンジラは満足を示すように小さく唸ると、アナを見て頷いた。
「素晴らしい。お父上はやってくれましたね、アナ」
アナは次の言葉、報酬についての話を待った。
「執事に全額の支払いをするよう命じましょう。また、お父上が発見したものが正確であれば、追加報酬を出しましょう。そうお伝えなさい」
アナは驚いて頭を下げた。アナの知る限り、アマンジラが追加報酬を出したことなど無かった。
「ご厚意に感謝します、アマンジラさん」
アナは彼が立ち上がって近づいてくる音を聞いた。
「もしよければ」
アマンジラは柔らかく言った。
「今夜はここに泊まっていきなさい、アナ。帰る前に一緒に食事もしたい」
アナは強いて顔を挙げた。アナを見つめるアマンジラの瞳は驚くほどの優しさだった。
「ごめんなさい」
アナは答えた。
「もう帰らなければならないんです。父の体調がすぐれないので」
このまま留まってオールドタウンの路地を探検してみたい気持ちは正直あったが、まずはやるべきことをやらねばならない。
「そうですか…わかりました」
アマンジラはそう言って、アナの警戒感をなだめるように一歩下がった。
「なにかお父上のために出来ることはありますか?薬や、特別な食べものは?羊の脳みそなどは特に滋養がありますが」
アナは父が羊の脳みそを食べるところを想像してつい笑ってしまったが、彼の機嫌を損ねるかもしれないと思い、真面目な顔に戻った。
「ありがとうございます、アマンジラさん。でも必要なものは全部そろっていますから」
アマンジラは微笑んで軽く礼をした。
「うむ、でももし気が変わったら遠慮なく私のところへ来るといい。私、アマンジラは友人のことを忘れたりはしないからね」
再度、アナは暖かな気遣いに驚いて微笑んだ。
「きっと父に伝えます」
「よろしい。では急ぎなさい、アナ。長く引き止めてしまって悪かったね」

家までの道中は何事もなく、翌朝の夜明けにはロッジに帰り着いた。出発してから七日が経っていた。アナは岩棚の陰の奥へ荷車を置き、忍び足で岩の橋を渡った。きっと父は驚くだろう。
しかしロッジはもぬけの空だった。
アナは入り口へ戻り、静かな砂漠を見渡した。
一体…一体どこへ?
アナはすぐに気がついた。あのサークルにいるに違いない。
荷車を置いた場所から狭い渓谷を東へ向かい、むき出しの岩を登る。昇ったばかりの陽の光がアナを照らした。この時間を父が選んだ理由は、日が昇りすぎて気温が耐えられなくなるほどに上がる前だからだろう。
アナの知っている彼であればきっとあそこにいて、色々と掘り返したり歩き回っているはずだ。
ここしばらく父の病気のことであのサークルのことは忘れていたが、タジナーから帰ってきて、アナ自身、あの謎に興味を持っていることに気がついた。
あれは自然のなせるわざじゃない。だが、アナも父親もどうしても説明がつかないなんてことはないと信じていた。あらゆるこの世に存在するものには、かならず理由があるのだ。
岩稜のてっぺんから眺めると、父はすぐに見つかった。サークルのちょうど反対側の端で、朝日の中かがみ込んでなにか試しているようだ。そのシンプルな存在感にアナは安堵した。正直無事ではない可能性すら頭をよぎっていたのだ。だが彼は元気そうだった。
アナはしばらくそのまま佇んで、心配することなしに、彼のてきぱきとした行動を眺めた。まるで贈り物かなにかのように。アナはその光景を熱心に見つめ続けた。しばらくして太陽が次第に高くなっていくことに気づくと、岩を降りて彼に合流した。
「なにか見つけたの?」
父親の見ている場所に影がかからないように気をつけてそばに立ち、尋ねる。
父親はちょっと顔をあげ、にやりと笑った。
「かもしれん。だが答えはまだだ」
アナは笑った。いつもの彼だ。父親は立ち上がり、向き直った。
「アマンジラはどうだった?支払ってくれたか」
アナは頷き、重い革袋を外套から取り出して手渡した。
「喜んでたわ。追加報酬を出すかも、って」
「驚かん。銀を見つけたからな、それくらい出すさ」
「銀!?」
アナは叫んだ。父はなにも言っていなかったし、報告書には自分も目を通していたにもかかわらず、いつもの調査以上のものは無いと思っていたからだ。
「どうして言わないの!」
「俺たちには関係ないことだからだ。俺たちの仕事は岩を調べることで、掘り出すことじゃない」
「私達は岩で生きていくってことね」
「正しい日々の稼ぎは、正しい日々の仕事から、だ」
父は必要なもの以上を得ることを良しとしない人だ。生きていくには十分、が口癖で、アナもそれをよく知っている。誰かを妬むということをしなかった。
「それで体調はどう?」
アナは尋ねた。父の顔色は相変わらず白いままだ。
「良いよ」
父親は目をそらさず答えた。
「お前が行ってから毎朝ここに来てたんだ」
アナは頷いたが、何も言わなかった。
父親は突然思い出したように言った。
「来い、アナ。見せたいものがある」
二人は両側から岩壁が迫る場所の狭い隙間を通り抜け、岩棚のようになっている場所に登った。そこにはなめらかな灰色の一枚岩が壁から剥がれ落ちたかのように、砂の中に半分埋もれて突き刺さっていた。その向こう側には大きな岩稜が砂からせり出しており、浸食された輪郭が陽の光ではっきりと見えた。岩の白さと不規則な影の黒さで、まるで象牙の彫刻のようだ。
「あれだ」
父親は岩稜の足元の影になった部分を指さした。
「あれは…洞窟?」
アナは珍しそうにつぶやいた。
「トンネルだ」
「トンネル?どこに続いてるの?」
「ついて来い」
暑い砂の上を横断しトンネル入口の影の中に潜り込む。明るいところから暗いところに入ったため、目がなれるまでしばらくかかった。アナは父親がランプを点けるのを待ち、中へと進んだ。
「あら」
トンネルはなめらかに十五か二十歩ぶんほど続いていたが、そこで終わりだった。その先は崩れた岩が遮っている。
父親は臆すること無くそのすぐそばまで歩いていくとランプをかざした。アナも壁を調べる。
「火山性みたいね」
「そうだな。ずっと地面の奥深くまで続いているのかもしれん。この岩さえなけりゃな」
アナはかがみ込んで、小さな岩の欠片を拾い上げた。一方の面はガラスのようになめらかで、トンネルの壁と同じもののようだ。
「いつごろ崩れたのかな」
「わからん」
アナは父親を見上げた。
「見せたいものってこれ?よくわからないんだけど」
「ここには手がかりが無いことがわかって、少し広い視点に立ってみたんだ。何がわかったと思う?」
アナは肩をすくめた。
「ここから数マイル北に、地震か…少なくともでかい地殻変動の痕跡があった。多分、この崩れ方からして比較的最近だ。で、このあたりで大きな地震があったのは?三十年前だ。そん時はタジナーも影響を受けた。大したことはなかったがな。それであのサークルの説明がつくかもしれん」
「どうして?」
「地震、ここの落盤、あのサークル。すべては繋がってるんだ。どういう風にかはまだわからんが。だがいつも言っているだろう。全てを知ることは不可能だ。だが俺たちにはこの大地に関する知識がある。もしこの奥に行けたら…」
アナは笑った。
「調査するの?」
父親は手をひらひらと振った。
「調査はできる。それは問題ない。だがこいつは…こいつは一生に一度のチャンスかもしれんぞ、アナ。もしこの現象を解き明かすことができたら、それは誰もやったことがないことだ!」
「それで…どうしたいの?」
父親は崩落した岩を身振りで示した。
「この向こうに何があるかを確かめるんだ」

食事のあと荷車に載せた荷物を解く。
アナは荷の中に、ジャーニンドゥ・マーケットで買った父親へのプレゼントを忍ばせていた。
荷解き中の彼を眺めながら、これまでに父が買ってくれたプレゼントの数々を思い出した。
いくつかは実用的なもので…たとえば小さなロックハンマー。6歳のころだ…そしていくつかは奇抜なもの…黄色と赤の蝶が図柄として描かれた3ヤードの明るい青色のシルクは、去年貰った。
父親は革のケースをしばらく見つめてから、留め金を外し蓋を開けた。
「チェスセットじゃないか!」
彼は顔を輝かせて声をあげた。
「ずっとやりたかったんだ!最後にやったのはいつだったかな?…なんでわかったんだ?」
アナははにかんで、うつむいた。
「時々言ってたのよ、寝言で」
「寝込んでる時にか?」
アナは頷いた。
彼はチェス盤を愛おしそうに見つめた。白と黒に染められた手彫りの駒が、それぞれ別々の小さな木製の箱に収められている。それはまったくもって高級なものではなく、彫刻は雑だし染色も普通なものだったが、そんなことは関係なかった。彼にとってはどんな銀製の彫刻にも及ばないほど素晴らしいものだった。
「遊び方を教えてやるからな」
父親はそう言ってアナを見上げた。
「今夜やろう。一時間ばかり…なに、お前ならすぐコツを掴むさ!」
アナは微笑んだ。思っていたとおりだ。
父が言っていたことを思い出す。アナ、贈り物というのはな、薄っぺらであまり必要ない行為に思えるかもしれん。だがそれは絶対に必要なことだ。なぜならそれは愛情や優しさの表明であり、その「過剰さ」は、人生に単なる無味乾燥な作業以上の意味を与えるものだからだ。もし贈り物がなければ、何事もちっぽけで無意味なものに見えてしまうものさ。
そのとおりなのだ。アナはこの数日で、そのことをよりも深く理解した。
「それで?どうやってやるの?」
父親はアナを見て、崩落した岩の事を言っているとすぐに理解したようだ。ベルトからハンマーを抜き出して振り上げる真似をした。
「こうやってさ」
「どれだけかかると思ってるの?」
「時間ならあるだろ」
「でも…」
「でもじゃない、アナ。急がば回れさ。なに、そんなにかかりゃせん。このやり方が一番間違いないんだ。そうだろ?」
アナは苦笑いして、頷いた。
「まあね」
「よし、そろそろ疲れたし夜まで休むぞ。チェスを始めるまでにリフレッシュしなきゃならんからな!」

その日から、彼らの生活には新しいルーチンが組み込まれた。夜明けの一時間前に起き出してトンネルへ向かい、一、二時間ほど崩落した岩を削る。アナはよく働いた。父は病気のあと疲れやすくなってしまったが、周辺の調査を続けていた。日が昇るとロッジに戻り、簡単な食事のあと、作業場での実験にとりかかる。
幾つもの棚には数年前から集めている標本が並べてある。これらはきちんと分析する時間が取れずに置いてあったものだが、父はこれを利用することにした。別の地域への調査に出かけるかわりにこれらの分析を行って、その結果をアマンジラに送ることにしたのだ。
夕方が近づくと作業を止めて一眠りし、日が沈み涼しくなってくると起き出す。そして食事のあとはロッジの中央にあるリビングで読書をしたりチェスをしたり。
アナは最初チェスの面白さがよくわからなかったが、すぐに父と同じくらい熱中し始めた。さすがに父にはまだ敵わなかったが、自分で気をつけないと夜更けまでやりすぎてしまうほどに。
父が寝てしまってからも、アナは作業場に戻ると次の段階の調査についての計画を立てるのだった。
父は問題ないと言っているが、アマンジラはいつまでも標本調査の報告では満足しないだろう。彼は父の砂漠調査に対して興味があり、報酬支払っているのであって、岩の分析に対してではない。それが富を増やす助けにならない限り。
去年、ロッジの南西に広がる土地の調査を行った事があった。砂漠の真ん中へ向けて三日間歩いた。そこで生き抜くためにもっとも重要なもの、それは十分な計画だ。例えばどこに日光を避けることのできるシェルターがあるか。例えば道中で手に入れることができるものは何か、そういったことを正確に知っておくことだ。全ての食糧、水、装備品は荷車で運ばなければならないし、現地ではだいたい八日から十日滞在するため、合計すると丸十六日分の準備をしておく必要があった。
簡単ではないが、アナは偽りなくこれ以外の生活を望んだりはしなかった。アマンジラは彼らの行い、その価値に対して真に正当な対価を支払っていないかもしれない。それでもアナも父親も他の仕事を求めたりはしなかった。
アナは砂漠を愛するのと同じくらい、岩とその成り立ちを愛しているのだった。
岩は「死んで」いて、動かないものと捉える人もいるが、そうでないことをアナは知っている。岩は他のものと同じように生きている。単に時間の捉え方がゆっくりであるだけにすぎない。
八日目。朝早く、二人はついに待ち望んだ瞬間に到達した。岩を貫通したのだ。それはかろうじて腕が入る程度の穴でしかなかったが、それでも落盤の向こう側に続くトンネルを明かりで照らすことはできた。
その光景に勇気づけられた二人は、いつもより一時間長く、代わる代わる岩の表面を削り続けた。
帰り道で父親はアナに問いかけた。
「もうじき通り抜けられる程度の穴を開けられるだろう。すぐにでも向こう側を調べるか?」
アナはにやりと笑った。
「我慢できないんでしょ?」
「もう少し十分拡げた方がいいと思ってるんじゃないか?」
「さあね」
アナはあるきながら答えた。
「それについて考えるべきとは思ってるわ」

その夕方から日が沈むまで父親は作業場でそのことについてずっと話し続け、アナはついに降参した。このまま永遠に議論を続けるよりはマシだ。
「もうわかったから」
アナはチェスボードを挟んで対面に座る父を見上げた。
「でも同時に向こう側に行くのは一人だけ。そしてロープを使うこと。何があるのかわからないんだから。万一また地震でも起きたら危険だわ」
「ああ、それでいいだろ」
父親はクイーンを動かした。
「王手」
そしてにやりと笑った。
「詰みだよ、お嬢さん」

岩の隙間を十分広げるには二日かかった。狭い隙間だったが、これ以上広げるには少なくともまた一週間かそこらかかるだろう。
「今夜準備するぞ」
父親はランプを隙間にかかげて向こう側を透かし見ながら言った。
「お前はそんなに必要なかろう」
「『お前は』ね」
アナは苦笑いした。また言い合いになるかと思っていたところだ。
「で、私は何を探せばいいの?」
「変わったものがあれば何でもだ。火山性の穴。通気孔。火砕性の堆積物やらなんやら」
「まだ今も大きな火山構造の一部だと思ってる?」
「ほぼ間違いない。こういった通気孔や掘削孔はそういったところでしか見られんからな。ここら一体は溶岩、今はもう地下深く、に沈んじまったマグマが溜まった巨大な盆地だったんだろう。それが深ければ深いほど、地表に表れる特徴は広範囲に及ぶ。超高温の溶岩は岩の最も弱い部分を見つけて通ってくる。断層線とかな。これはまさにそういったもんさ」
「木の根みたいな感じ?」
父親は頷いてちょっと微笑んだ。アナは木というものを見たことがなかった。厳密に言えば木では無いものも含めて。タジナーにある浅根性のヤシだけだ。アナの世界に関する知識のほとんどは本によって得たものか、人に聞いたものだった。世界の狭さ…それがここで暮らす上で最悪なことだった。
歩いて帰りながら、いつものように言葉を交わす。
お互いうつむいたまま、視線も交わさず。
「アナ」
「ん」
「ここでの暮らしを後悔してるか」
「父さんは?」
「俺が選んだことだ」
「他の選択肢があったら、私はそっちを選んでいたと思う?」
「時々な」
「ならはずれ。私は砂漠を愛してるの」
「だが他のことは何も知らない」
「まだここに居たいと思ってるわ」
「本当に?」
「本当よ」

「アナ、ロープを見ろ、引っかかってるぞ」
アナは動きを止め、わずかに反対側へ移動してゆっくりロープを手繰り寄せて引っかかりを外した。落盤にうがった穴を半分ほど抜けたところだが、思ったよりも穴が狭い。なんとか肩は通るが、尻がつかえてしまう。先はまったく見えず、僅かにアナの体と岩の隙間から漏れる明かりによって、ますますその狭さがはっきりとわかる。
アナはなんとか体をねじり持ち上げようとしたものの、ほとんど落下するようにして落盤の反対側の床へと落下した。
ともあれ、少なくとも左腕は自由になった…右腕はまだ体と岩の間に挟まったままだが。
「まだ体が上向きなら回転しろ、アナ。穴は横方向のほうが広い」
アナは父親の言うようにやってみた。
「こりゃもう一週間待つべきだったかもね」
「かもな。だがもう少しだ。ちょっとずつ…そうだ。いけるぞ」
少しずつアナは体をよじって、頭と肩が隙間を抜けるまで後退した。これで腕が抜けそうだ。アナは腕を持ち上げてみたが、まだ抜けきっていないようだ。
「足を掴んでて」
アナは父親がブーツの足首をしっかりと握るのを感じた。
「オッケー。体を回転させて、右手が抜けるかどうかやってみる」
「わかった」
それは難航した。岩はまるでアナを、アナの骨を押しつぶすかのようだ。だが少しずつ体は回転し、床の方へと向くことができた。
アナは何も見えなかった。正面は完全なる闇。だが心配はしていなかった。ただなにか尖ったものの上に落ちたくはないなとだけ考えていた。
「行けそう」
ついに腕が抜けた。
「ゆっくり降ろして…そう、ゆっくり。よし、もう大丈夫よ。抜けたわ」
アナは足首から父親の指が力を抜いて離れていくのを感じた。
「ふう…やれやれ」
アナは体を起こすと振り返り、砂埃を落としながら呼びかけた。
「大丈夫?」
「息が切れた…ちょっと待て」
アナは岩の隙間を覗いた。床のランプの隣に見えていた父親の足はもうそこにはなく、体を壁に預け、片手を胸に当てている様子が見える。
「ちょっと…ほんとに大丈夫?!」
父親は頷いてアナを見た。
「ああ、大丈夫だ…まったく、お前がこんなに重くなってるとは思わなかったぞ」
「本当ね?」
「ああ、続けよう。腰にロープを締めろ。ランプをそっちに寄越す」
アナは言われたとおりロープを拾い、腰にきつく留めた。細いが強いロープで、五百フィートの長さがある。この簡単な探索には十分だろう。アナは満足し、隙間からランプを受け取った。
「こいつもだ」
続けて渡されたのは、父親の防護ハットだった。
ランプを床に置いてハットをかぶると、予想に反してそれはアナの頭にちょうどいい大きさだった。ストラップを締めてランプを拾い上げ、父親に見えるようにかざした。
「いいだろう」
父親の目はランプの明かりで輝いて見えた。
「一時間経ったら呼ぶ。だがしっかり目は開いておけよ、アナ。チャンスを逃すな」
「わかったわ」
「ノートは持ったか?」
アナは一番上のポケットを叩いた。
「よし。じゃあ行け。ここは寒い」
アナは微笑むと、奥の暗闇を向き、ランプを掲げた。

暗い湖を見晴らす書庫…その長い格子窓からは、遥かドニが…そのシティの明かりが、巨大な洞窟の壁に沿って何段にも張り付いているのが見通せる。
大きな暖炉に灯された炎の揺らめく明かりが、その周りに座る四人の男を浮かび上がらせていた。大きなアームチェアに深く腰掛け、その顔には炎によって金と黒の鋭いコントラストが投げかけられている。一時間前に食事を終えてから今まで、彼らはここで長く話し込んでいた。
「どうしてそう言えるのかわからないな、ヴェオヴィス。確かなことなどなにもないじゃないか。君の言う根拠はどこにあるんだ」
そう言う友に向き直ったヴェオヴィスは、手の中のルビー色に輝くワイングラスを揺らした。
「しかし単純にそうなんだ、フィハール。根拠もなにも、自明の理さ。君は我々が接続できる『時代』における既知の種族は、道徳的に振る舞っていると主張する。それには同意するよ。そのとおりだ。…だが彼らがそう振る舞うのは我々が彼らを支援しているからだ。彼らの道徳心は生まれつきではなく、教育されたものだ。そして我々は、ドニは、それができる唯一の存在だった。数千年にわたって、我々はそれをよくわかっていたのさ」
ヴェオヴィスは他のメンバーの方をわずかに振り向いた。
「スァルニル、君はメンテナーだな。そうじゃないか?君の第一の仕事は、我々が接続する世界の原住民に、安定した道徳的な社会の枠組を構築することじゃないか?」
スァルニルはすでに中年世代で、ギルドでもそれなりの地位にあり、監獄の時代プリズン・エイジの管理者を経て、現在は崩壊したり不安定な時代の処理を担当している。彼はヴェオヴィスの言葉をしばらく思案したのち、肩をすくめた。
「それでも、フィハールの言葉にはいくらかの共感を覚えるね。我々は自分自身についてそこまで確信を持って言い切れるだろうか、論理的に?」
「馬鹿馬鹿しい!」
ヴェオヴィスは笑って身を乗り出した。
「ドニの影響、ドニの手引きがなければ、どんな『時代』も汚らしい野蛮人だらけの僻地だけさ!間違いなくね。スァルニル、そんな事例いくらでも見てきただろう?そんな堕落、退行を!我々は油断せず監視しなくてもかまわないというのか?」
「必要だし、そうしている」
スァルニルは同意した。
「じゃあ想像してくれ、地表のことだ。もしそこに人が暮らしているとしてだ、数千年もの間、どんな道徳的指導も受けてこないまま発展してきた人々だ。彼らはおそらく、いや間違いなく、野蛮人だ。動物よりは多少マシかもしれないが、ほとんど基本的欲求の奴隷さ。そして我々は数え切れないほどの『時代』で見てきただろう、野生の動物がどう振る舞うかを!」
アトラスはこれまでずっと黙って聞いていたが、ここでようやく口をひらいた。
「ドニほどではないにせよ、彼らも生来の道徳観は持っているのでは?」
ヴェオヴィスは振り向いて微笑んだ。
「その可能性は極めて小さいと言っているのさ。そうじゃないか?アトラス」
「…まあね」
「そらみろ!」
ヴェオヴィスはかぶせるように言った。
「わかるだろう、それを考えると俺はぞっとするんだ。社会全体が欲望と暴力によって統治されているなんて!」
「そして脅し」フィハールが付け加えた。もう半分納得しかけているようだ。
「そのとおり!そしてそのような社会に、真の知慧が発達する余地があるだろうか?大方予想される地上人は、無愛想で、不平を喚く人種で、まともな会話をしていてもすぐ月に吠え出す野犬の集団のようなものさ!」
ひとしきり笑いが起きた。
「では、評議会は決定を再確認すべきだと考えるのか?君は」
アトラスは尋ね、そもそもの会話の発端に戻した。
「地上人に対して、ドニは何もするべきではないと?」
「実際そうする」
ヴェオヴィスは力強く断言した。
「そして正直に言えば、トンネルの終端は単に封鎖したままにはしない。完全に破壊するつもりだ」
「そうか」
「なあ、アトラス」
ヴェオヴィスは身を乗り出した。
「君があの遠征に感傷的な気分を抜きに語れないのは理解できるし、俺もそのことには敬意を持っている。だがあの事業は間違いだった。評議会はあれだけ熟考した上で間違えたんだ!」
アトラスは黙ってワインを飲み、暖炉の火を見つめた。
「君を傷つけてしまったな」
ヴェオヴィスは立ち上がった。
「すまない。謝るよ。きっと、俺が無神経なせいだ」
アトラスはヴェオヴィスを見上げて悲しそうに微笑んだ。
「いや、ヴェオヴィス。君は見たままを語った。俺もそのことに敬意を持っている。いずれにせよ、俺も結局君が正しかったのかもしれないと感じるようになってきたんだ。あれは間違っていたのかもしれないと」
ヴェオヴィスは微笑み返した。
「じゃあきっと次の評議会では俺に投票してくれるね?」
アトラスは肩をすくめた。
「かもね」

だいたい百歩ほども下っただろうか。トンネルは再び崩落によって通れなくなっていた。だが今回は左側に暗い隙間が口を開けている。それはトンネルの壁に入ったクラックで、アナがやろうと思えば通り抜けられそうなくらいには大きかった。
アナは左の壁に手をかけてその内側へ伸び上がり、ランプをかざした。
クラックの先は深く、床面は急勾配で暗闇へ向かって下っていた。かすかに冷たい空気が感じられる。遥か下の方、遠くで水の音と、なにか別の…不規則なノックのような音が聞こえる。コツ、コツ、コツ。岩に弱くのみを打ち付けるような音だ。
アナは振りむいてやってきた道を確認し、そのスロープはまだそれほど急勾配ではないと判断するとランプをハットに留めて固定して下り始めた。転がり落ちないようにしっかり両手で壁を確保しながら、一歩ずつ踵で足元を確かめる。
クラックは思ったよりも長く続かなかった。二十歩ほどだろうか。その先は岩で塞がれているように見えて、アナはしばらくここで行き止まりかと考えたが、よく見ると突き当りの直前で隙間がほぼ90度ほど折れて続いているようだ。角を曲がったアナは小さく驚きの声を上げた。
「大空洞だわ!」
父親に聞こえるかどうかはわからないが、アナは叫んだ。
「すごく大きな空間よ!」
コツコツ鳴る音はかなり近く、水の音も大きくあたりに鳴り響いている。
空洞の床面に降り立ち、アナは振り返ってあたりを見渡した。ランプの光が届く範囲は狭かったが、その端に小さな水の流れがあってちらちらと光を反射しているのが見えた。
水。砂漠ではなによりも大切なもの。父がアマンジラに見つけてあげた銀なんかよりも。
アナは腰につないだロープを意識しながらその水の流れに近づくと、かがみ込んでその透き通った水を掬い、口をつけた。
氷のように冷たい。そして澄んでいる。泉の水よりも上質だ。
アナはこの発見を父に伝えるのが楽しみで思わず笑顔になった。そして振り返って何の気なしに天井を見上げた。天井までは二十ヤードはあるだろうか。そして気づいた。
あれだ。コツコツ鳴る音の源がそこにあった。それは明るい赤色で、天井からぶら下がった…なんだろう…大理石のようになめらかだが薄く、先端になるほど膨らんだ、血のしずくのようななにかだった。それが風に揺れて空洞の天井にぶつかり、コツコツ音を立てているのだ。
アナは眉をひそめて振り返り、風の源を探した。空洞は向こう側に行くほど狭くなり、じょうごのような形をしている。風はその先から吹いてきているようだ。
アナはその風を嗅いでみて、新鮮さに驚いた。普通このような洞窟の空気は、湿気と岩によってむわっとしたカビのような臭いがするものだが。
アナはハットに固定していたランプを外して掲げ、ぶら下がった赤いものの正体を確かめようとした。それは頭上の岩に引っかかっているか、もしくは岩から染み出してそのまま凍ったように見える。
アナはノートを取り出して膝に拡げた。書く内容は、アナが見たものをそのままだ。洞窟に関する先入観や知識を極力排除して。アナはそれが重要であることを経験から知っていた。後に見返したとき、忘れられてしまうような事柄がなにかのヒントになったりする。たとえすべて無駄になる可能性があるにせよ、全てを書き留めておくことが大切だった。一旦ノートを置き、ロープを確認する。クラックにひっかかっていないことを確認すると、アナは安心して洞窟の先、じょうごの細くなっている方へ向かって歩き出した。両側に目を配り、何ひとつ見逃さないように。
三十歩ほど進んでアナは立ち止まった。頭上に僅かな違和感を感じる。
洞窟が狭くなるところのすぐ手前。そこに赤い物体が大きく染み出し広がっている箇所があった。それは厚く、硬化した幕のようで、溶岩流のように岩から飛び出していた。
だが溶岩ではない。アナの知っているどんな物質のたぐいでもなかった。
それを見てアナは砂漠のサークルを思い出した。なにかこれらには関連性がある、それがどんなものかはわからないが。
一刻も早く父にこれを伝えたい。
アナはその物体の前に立ち、ランプの光を投げかけた。血のように赤く、その赤の中にわずかに虫がはったような黒色が含まれている。
たぶんこれは溶岩の一種だったのだろう。
アナはハットにランプを留めて、ベルトからハンマーを取り出すと、壁に足をかけてその物体を削り取ろうとした。
これは一体何?ハンマーは物体になんの影響も与えられなかった。柔らかそうに見える。そして実際柔らかい。だが全く削り取れない。なぜ?跡すらつかないなんて!
これは溶岩ではない。でも、だとすれば何だというの?少なくとも標本が手に入らなければ、これを誰にも伝えることができない。
アナは二歩ほど下がって、洞窟の壁をじっくりと眺めた。もしかしたら、いやきっと、もう少し小さなやつがあるはずだ。ハンマーでなんとかできそうな…しかし物体はなめらかなひとつづきで、他の場所には見当たらなかった。
アナは振り返り周囲を見渡し、笑顔になった。あそこだ。ほんのちょっと先の床に、新鮮な血が滴ったかのような、小さな赤いビーズが列になって転がっている。アナは上を見上げた。どこかにこの滴りを生む細い筋があるはずだ。強力な圧力によって、岩の隙間から押し出され、そうしてこれらは作られたはずだ。
アナはかがみ込み、今度こそ赤い物体を岩の隙間から手に入れた。標本を四つ、最も大きなものはアナの拳ほどの大きさがあった。
最後のひとつをナップサックに放り込みかけて、もういちど明かりの下で眺めてみる。その物体はアナの手の中でぐにゃりと曲がった。スポンジのようでいて、大理石よりも頑丈だ。不思議なことに、光源よりも反射光のほうが輝いてみえる。
ともかく、そろそろ戻る頃合いだ。これを研究するためにはまず分析をしなければ。
アナはナップサックを肩にかけ、右手でロープを掴むと来た方へ戻り始めた。

他の皆はすでに帰った後、クヴィーアの広い廊下の途中、大きな石づくりの階段の下、小さな入江が見える大きなガラス扉の前にヴェオヴィスとアトラスは立っていた。
「今夜は泊まっていくといい、アトラス。明日の朝一緒に戻ろう。どうせ評議会の会議は昼過ぎだ」
「そうしたいが、何人か会わなければならない人がいる」
「別にいいじゃないか。会議の準備があると言えばわかってくれるさ。そんなことより、お前とはもっと話したいことがあるんだ」
「俺もだ。だが俺は自分の言葉は曲げんぞ」
ヴェオヴィスは微笑んだ。
「わかってるさ。お前の正直さと、その言葉の正しさも。だが会議の前に、ギルドホールの俺のオフィスへ是非一緒に来てほしいんだ。お前が投票する前に、楽しい話がしたい」
アトラスも微笑み返した。
「もう決まってるんだ、ヴェオヴィス。俺は棄権する」
「棄権だと?」
「これがベストだと思うんだ。俺はどちらの主張にも納得していない。君の言うようにすべきかもしれないし、ただの感傷的なためらいかもしれない。それでもこの票を投じることは、マスター・テラニスへの裏切りのように思えてしまうんだ」
「ならばそうするといい。お疲れ様、友よ」
二人は互いの手を握った。
「また明日」
「また明日…ありがとう。今夜はとても楽しかった」
「こちらこそ。さあ行け。俺がお前に腹をたてる前にな」

「さっぱりわからん」
父親は顕微鏡から目を離した。
「こんなものは今まで見たことがない。これは…人工物だ」
「あり得ないわ」
アナは顕微鏡をかわりに覗き込んだ。
「じゃあこれが一体何なのか教えてくれ。こんな構造の石を見たことがあるか?結晶でもないし形成物でもない。少なくとも、自然のプロセスによるものじゃあない。これは作られたものだ!」
アナは肩をすくめた。
「私達の知らない形成過程があるのかもしれないじゃない」
「だとすりゃ俺は岩のことをなんにもわかっちゃいなかったって事になる!」
「ふふっ、そうかもね」
「あぁん?…お前だってそう思っちゃいないだろうが」
「私にもこんなものをどうやって作るのかわからない。どれだけの熱と圧力が必要になるか…。それはそうと、何がこの物質を洞窟で染み出させていたんだろう?さっぱりわからないわ」
「うむ…」
父親は再び考え込んだ。その顔に疲れの色が濃く滲んでいる。二人はもう十時間近く、この難題に取り組んでいるのだ。
「もう休まないと」
アナは言った。
「続きは朝からにしましょう」
「ああ」
父親は答えた。だが明らかにまだこの問題が頭から離れていないようだ。
「かならず答えはある…完全に俺たちが見落としている何かが…」
しかしなにを見落としているというのだろう?二人は通常行なわれるような試験を行った。実験を二度繰り返し、十回調べる機会を得たが、いつも同じ結果が返ってくるだけだった。まったく奇妙な物質だ。

父親はその夜、いつにもまして陽気だった。
よく笑い、冗談を言った。
そして朝、彼は死んでいた。
アナは花の夢を見ていた。青い花。父に描いた絵と同じ。
起き上がりキッチンに移動し、ボウルやタンブラーを並べながらちらっと窓の外を見たとき、その朝焼けの光景になにか違和感を覚えた。
父の姿を認めて、アナは作業場の横の床にドサッと座り込んだ。
ちょっと触れたその肌は冷たく石のようで、すぐに死んでいるとわかった。
暫くの間アナは父を仰向けにすることができず、真っ黒な心のまま呆然としていた。
まばたきをして、再び父を見る。
父は夜のうちにここまで来たにちがいない。アナには何も聞こえなかった。
そして彼は死んだ。静かに。なにひとつ言い残すことなく。
アナは目を閉じ、嗚咽を上げはじめた。

大ギルドホール正面ロビーはざわついていた。遅れてやってきたアトラスは人混みの向こうにヴェオヴィスの姿を認めると、側へいそいで駆け寄った。
「ヴェオヴィス、なにかあったのか?」
「エネア卿だ。昨夜病に倒れられたそうだ」
エネア卿はトゥラ卿の名代として評議会の議長を務めていた。
彼の不在、そして代理の任命も無いことで評議会は進行が不可能になっているようだった。
「では本日の評決はなしだな」
「噂が正しければ一、二週間は延期だろうな。危篤らしい」
「なんということだ…」
年長者たちはだれもが悲嘆にくれているようだった。エネア卿はその三世紀の間、懲罰よりもその類まれなユーモアのセンスで評議会をコントロールしてきた人物だった。彼を失うことは、評議会にとってこの上ない損失と言えた。
「我々はどうするべきだろうか」
アトラスは人で溢れた前庭を眺めながら尋ねた。
「解散だろうな」
ヴェオヴィスが答えた。
「だがまだやるべきことがある。今のうちに、一人二人でも考えが揺れているメンバーを引き込んでおきたい。すまないが失礼する」
アトラスは頷き、ヴェオヴィスは歩み去った。
ヴェオヴィスと違い、アトラスは強い政治的主張を持たなかった。アトラスは若くしてギルドの若手代表として評議員に任命されたが、それは彼自身がそれを強く望んだからではなかった。

The Book of Ti'ana © 1996 Cyan, Inc.

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