Book of Ti’ana 第2章─石と塵と灰

第二章 | 石と塵と灰

岩と塵で描かれた奇妙な円の中央に立ち、アナは目を細めた。
背が高く、痩せ気味な十八歳の少女。日に焼けてほとんどブロンドに見える鳶色の髪を首の位置でまとめている。父親と同じように、長く黒い砂漠用マント。腰には幅広の革製ツールベルト、背中には革のナップサック、足元はレザーブーツ。
左側で、彼女の父親がゆっくり円にそって歩いていた。日光を遮るためのつばの広い帽子ハットを持ち上げ、訝しげな顔をしている。
このサークルを発見したのは数日前、休火山の南西区画の砂漠を調査したその帰り道だった。
「で?」
アナは父親のほうを振り返った。
「なにこれ?」
「さあな」
父親はハスキーな声で返事した。
「誰かさんが延々、石ころを大きさごとに分類して完璧な円形に並べてこいつを作り上げたか、さもなきゃ…」
「さもなきゃ?」
父親は首を振った。
「誰かがでっかいふるいにでもかけたんじゃねえか?下からな。ハハハ」
「…それで結局、原因は?」
「さっぱりわからん。調査屋やって五十年間、妙なものはいろいろと見てきたが、こんなのは初めてだ」
アナは歩数を数えながらサークルを歩き、頭の中で計算した。
「直径八十歩。だいたい八百平方フィートね。作られたものにしては大きすぎ」
「このあたりの部族が総掛かりでやったんなら、まあ」
「うん、でもすごく…自然に見える。すっごく大きな水滴が空から落っこちてきたみたい」
「それか、ふるいだな」
父親はしばらく目を細めて、石の配列パターンを足で確かめた後、再び首を振った。
「振動だ。地下からの」
「火山?」
「いんや、違うな。地震じゃない。地震は岩にヒビを入れたり割ったり沈めたりはするが、こんなふうに大きさ別に並べたりはしねえ」
しばらくしてアナは言った。
「父さん、疲れてるんじゃない?ちょっと休む?」
いつものアナは父親のものの見方について口を出すことはしないが、声には若干心配そうなトーンが含まれていた。最近の父は確かに疲れやすく、昔ほどの元気を感じない。さすがに年だろうか。
父親は返事をしなかったが、アナは別に気にしなかった。もともと口数の多い人ではない。
アナはもう一度見回した。
「いつからここにあったのかしらね?」
「ここは囲まれているからな」
父親は周りの様子を確認して言った。
「砂もそんなに動かねえ場所だ。だが、となるとかなり長いことあったんじゃねえか。五十年かそこらは経ってるかもな」
アナは頷いた。いつもならサンプルを採取するところだが、ここは岩自体がどうこうではなく、その並び方がおかしいのだ。
「いちど帰って、明日朝また来ない?」
「そうだな、そうするか。ゆっくり水風呂に浸かりてえ」
「イチゴの生クリーム添えも、でしょ?」
「おお、そんでグラス一杯のブランデーがありゃ完璧だ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
「なにか作れるかどうか見てみるわ」

冗談で「ロッジ」と父親が名付けたそれは、彼がヨーロッパから戻ってきて子供時代を過ごした狩猟小屋とは別物で、岩壁と岩棚の間に作られていた。深さ六十フィートほどの位置に裂け目を横断するように架かっている細い岩の橋は、十五年ほど前、父が切り出して架けたものだ。アナは三歳になったばかりだった。
「ロッジ」の外壁は手掘りの岩で、表面はなめらかに磨かれており、曲線の美しい小さな木のドアが細い橋の終点、白い岩に埋め込まられるようにつけられており、細長く岩をくり抜いた、天井の低い部屋が見えている。
細長い部屋の他にも四つの小部屋がある。うち三つは裂け目の右壁側にあり、生活房として使われている。残りひとつは左壁側で、実験や作業のための部屋だ。
アナは部屋の奥にある大きなソファに父親が座るのを手助けした後、低い位置にある石の通路を通って先の厨房へ向かうと、しばらくして冷たい水を持って戻った。
「おいおい、もったいない。いらんよ」
「いいから飲んで。今夜泉で汲んでくるから」
父親はためらったが、申し訳なさそうにゆっくり飲み干した。
アナは父親がどれほど疲れ、弱っているかを見て取った。全く、辛いとは一言も言わないんだから…。
「明日は休んで頂戴。私は一人で大丈夫だから」
父親は気に入らないようだったが、それでも不承不承、頷いた。
「報告はどうする」
「遅れたら、遅れたときよ」
アナはぞんざいに言い放った。
「約束したんだぞ」
「具合が悪いんでしょう。彼もわかってくれるわよ。人は病気になるものよ」
「ああ、そして人は食わなきゃ生きていけない。それがこの世ってやつだ、アナ」
「そうかもね、でも私達は生き延びる。そしてあなたは病気。自分を見てみなさいよ。休みが必要だわ」
父親はため息をついた。
「わかったわかった…だが一日だけだぞ」
「オッケー。じゃあベッドに入って。夕食の頃起こしに行くわ」

父親を起こしに行く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
アナは父の部屋の窓辺に座り、星がゆっくりと動くのをしばらく眺めていた。
振り返ると横になっている父が暗い部屋の中で黒い影のように見える。
「気分はどう?」
「ちょっとマシになった。もう疲れは取れたよ」
アナは壁の棚から水差しを取り、持ってきた夕食に今日二杯目の水を添えた。先程、父親が眠っている間に裂け目の底まで降りて水差し二杯分の水を汲んできたのだった。大切に飲めば数日はもつだろう。
父親は大事そうに一口飲むと、再びベッドに沈み込んだ。
「夢を見ていたよ」
「どんな?」
「母さんの夢だ。最近ずいぶんお前は彼女に似てきたと思ってな」
アナは黙っていた。亡くなってもう六年たつが、記憶の中で話す母は、まだあまりにもはっきりしていた。
「明日は私も出かけるのはよそうと思う」
アナは一旦言葉を切り、続けた。
「先週父さんが始めた実験を終わらせようと思って」
「そうか」
「それと…何かあった時に近くに居たほうがいいと思って」
「俺は大丈夫だよ。疲れてただけだ」
「ええ、でも…」
「まあそうしたけりゃ、そうしろ」
「実験はどうする?」
「やることは解ってるだろ、アナ。もう俺と同じくらいうまくやれる」
「まだまだよ」
アナは微笑んだ。
その後もアナは暗く静かな部屋の中で、父親の穏やかないびきを聴いていた。
アナは台所へ移動した。窓からは空の低い位置に月が昇っているのが見える。タンブラーを片付けて、アナは窓からぼんやりと砂漠を眺めた。父は本当に疲れているだけなのだろうか。もし何かの病気だったら?
ここは最寄りの街、タジナーからも百マイル以上離れている。もし病気だったら…父は砂漠を横断することはできないだろう。父を荷車にのせて引いていく?無理だ。真夏の砂漠の熱さには耐えられないだろう。
ここで、持っているものだけでなんとかするしかない。
アナは思考に沈み込んでいたが、むりやり引っ張り上げた。ふさぎ込むのは良くない。
花。そうだ、花を描こう。
カンバスに花の絵を描き、入り口のそばに飾ろう。明日の朝、起きてきた父親によく見えるように。
そう考えると元気が出てきた。アナは作業部屋の父の道具箱からオイルランプを取り出し、火をつけてテーブルの向こう側に置くと、棚から絵の道具を取り出し、鼻歌を歌いながら絵を描くためのスペースを作り始めた。

アナ?
「なに、父さん?」
何が見える?
「見えるのは…」
アナは言葉を止めた。いつもの心の中のやり取りを一旦止めて、花崗岩のてっぺんから埃の舞う荒野を見渡した。夜明け前に起き出したアナは父の調査の続き、この乾いた荒野の区画マッピングを行っていたが、すでに日は高く昇り、そろそろ暑さが辛くなってきたところだ。羽織ったフードがまるで焼けるようだ。
アナは視線を落とし、呟いた。
「石と塵と灰」
このやり方は父から教わった。質問と回答。いつも、いつでも。目の前にあるものに集中し、見ること。そして物事の特徴をとらえること、それこそが知識を形作る。しかし今日のアナは正直それどころではなく、集中することができなかった。
ノートブックを閉じ、鉛筆をスロットに差し込むと父のコンパスと一緒にナップサックへ放り込む。
一週間が過ぎ、まだ父はベッドから起き上がれないでいた。何日も熱に浮かされ、アナはそのそばに付き添い、貴重な水で彼の額を濡らした。
熱はやがて引いたが、ふたりともずいぶん消耗していた。アナはほぼ一日眠り、期待を胸に目覚めたが父はほとんど良くなっていないように見えた。熱が父からなにかごっそり奪っていったように、顔はやつれ、呼吸は不安定だった。
なんとか食べさせて見守っていたが、正直アナにできることは、待つこと以外にほとんどなかった。その状況に耐えられなくなり、なにか他に役に立つことができないかと出てきたものの、やはり集中できなかった。
ロッジはそう遠くない。ここから一マイルもないだろう。そういう場所を選んだ。それでもこの太陽の下、砂漠を歩いて戻るのは大変だ。
アナはロッジを見下ろす尾根に登り、不意に怖くなった。それほど遠くへ来ては居ないが、もし父が私を必要としていたら?そこに居ない私の名を呼んでいたとしたら?
アナは急いで斜面を駆け下りた。理由のない恐怖が大きくなり、走って細い岩の橋を渡り暗い部屋へ滑り込むころにはそれは確信に近かった。
「父さん?」
ベッドは空だった。アナは荒く息をついた。眉から首へ、そして背中に汗が伝う。振り向くと、窓を通して砂漠が目に入った。
…もしかして外へ?私を探して?
アナは不安に襲われ、急いで部屋を出たところで物音を聞きつけて立ち止まった。右手からだ。
「父さん?」
作業部屋を覗き込むと、アナに気づいた父親は笑顔を返した。部屋を横切るように置かれている作業ベンチで、彼は自分の大きな革張りのノートを広げていた。
「良いぞ、アナ」
父は出し抜けに言った。
「アマンジラは喜ぶだろう。きっと良い値をつけてくれる」
アナは安堵して言葉が出ないほどだった。最悪な想像をしていたのだ。
彼はその気持をすべてわかっているかのように微笑んでいた。アナはそのまま近づいていって抱きしめたかったが、それは彼のやり方ではないことを知っていた。彼の愛し方はまるで鷹が雛に対するように、厳しく、距離をおいたものだった。それが母親という存在なしで彼らが生き抜いていくための唯一のやり方なのだ。
「アナ」
「うん?」
「絵をありがとうな。なんでわかった?」
「…何が?」
「これは俺の好きな花なんだ」
アナは微笑んだが、答えを口には出さなかった。
それは、母さんが教えてくれたのよ。

父親は日に日に回復し、少しずつ出来ることが増えてきた。一週間後にはベッドから起き上がれるようになり、作業場に顔を出せるようになった。そこでアナから完成した調査報告書を手渡された。
「よし、じゃあアマンジラに届けて来てくれ。期日どおりじゃなかったが、奴もとやかく云いはしないだろう」
アナは報告書を見つめて、言った。
「無理よ」
「なんでだ?」
「まだ本調子じゃないでしょう。道中で倒れてしまうわ」
「ああ、だから俺は行けない。道はわかるだろう。荷車もうまく扱える」
アナはかぶりを振った。確かにそうだが、言いたいのはそういうことじゃない。
「置いてはいけないわ。今はまだ」
父親は微笑んだ。
「大丈夫、大丈夫だ。料理も自分で作れるし、俺はそんなに水を使わない。お前が帰ってくるまでに、水差し二杯くらいありゃ十分だ」
「でも…」
「でもじゃない、アナ。アマンジラに報告書を渡さなきゃ、俺たちは報酬を貰えん。そしたら俺たちは何も買えなくなる。それに、タジナーで買ってきてほしいものもある。リストを作っといた」
アナは父を見つめた。そうと決めたら頑固なんだから…
「いつ出ればいいの?」
「今夜出ろ。日が沈んだらすぐにな。夜明けまでには旧火山あたりまで行けるだろう。あそこには裂け目があるから、そこで夜まで眠るといい」
それは今まで何度も繰り返し、体に染み付いたといっていいくらいのいつもの道程だった。
「心配じゃない?」
「もちろん心配さ」
父親は答えた。
「だがお前はタフだ、アナ。いつも言っているようにな。だが一つ、ジャーニンドゥ・マーケットの奴らには、ボられるなよ」
アナは笑った。たしかに彼らはいつも値段をふっかけてくる。
「水差しをいっぱいにしてくるわね」
父親は頷くと、何も言わず部屋の中へ引っ込んだ。
「タジナーへ行って、それから」
アナは手の中の報告書に目を落としてつぶやいた。
「父さんの言う通り、アマンジラさんが歓迎してくれるといいんだけど」

アマンジラはご機嫌だった。満面の笑みでアナを迎えた彼は、アナにローチェアに座るようすすめると机に戻り父の報告を読み始めた。
彼が様々な地図や図形の部分にさしかかったのを見て、アナは辺りを見回した。アマンジラの邸宅に入ったのはこれが初めてだ。いつもは父が報告に向かい、その間アナはオールドタウンの宿で待っていたからだ。
広い室内は白・クリーム色、赤やピンクに彩られた優雅な内装で、バルコニーへと続く大きなガラス張りのドアは開け放され、そこから差し込む明るい陽の光に満ちていた。床は厚手のラグ、壁にはシルクのタペストリー。アマンジラの後ろの壁には皇帝から直接賜ったという皇帝のポートレートが飾られていた。
すべてが莫大な富によるものであることを示している。
アナは再びアマンジラを見た。アナ同様、アマンジラもこの土地の出ではない。もともとは東からの貿易商人だったのが数年前にここに定住したらしい。それが今ではこの国のレベルで見ても有数の重要人物だ。
アマンジラの肌は夜のように暗く、黒というよりもはや青に近い。だが彼の特徴は奇妙なことに西洋的な、洗練された柔らかさを備えており、好戦的な見た目をした砂漠の民とは大きく異なっていた。
まるで鷹の巣に飛び込んだ一羽の鳩のようだ。
だが全てが見た目どおりとは限らない。この鳩は爪を持っていた。そしてその翼はこの乾いた砂の地すべてを覆うほどに大きかった。
アマンジラは満足を示すように小さく唸ると、アナを見て頷いた。
「素晴らしい。お父上はやってくれましたね、アナ」
アナは次の言葉、報酬についての話を待った。
「執事に全額の支払いをするよう命じましょう。また、お父上が発見したものが正確であれば、追加報酬を出しましょう。そうお伝えなさい」
アナは驚いて頭を下げた。アナの知る限り、アマンジラが追加報酬を出したことなど無かった。
「ご厚意に感謝します、アマンジラさん」
アナは彼が立ち上がって近づいてくる音を聞いた。
「もしよければ」
アマンジラは柔らかく言った。
「今夜はここに泊まっていきなさい、アナ。帰る前に一緒に食事もしたい」
アナは強いて顔を挙げた。アナを見つめるアマンジラの瞳は驚くほどの優しさだった。
「ごめんなさい」
アナは答えた。
「もう帰らなければならないんです。父の体調がすぐれないので」
このまま留まってオールドタウンの路地を探検してみたい気持ちは正直あったが、まずはやるべきことをやらねばならない。
「そうですか…わかりました」
アマンジラはそう言って、アナの警戒感をなだめるように一歩下がった。
「なにかお父上のために出来ることはありますか?薬や、特別な食べものは?羊の脳みそなどは特に滋養がありますが」
アナは父が羊の脳みそを食べるところを想像してつい笑ってしまったが、彼の機嫌を損ねるかもしれないと思い、真面目な顔に戻った。
「ありがとうございます、アマンジラさん。でも必要なものは全部そろっていますから」
アマンジラは微笑んで軽く礼をした。
「うむ、でももし気が変わったら遠慮なく私のところへ来るといい。私、アマンジラは友人のことを忘れたりはしないからね」
再度、アナは暖かな気遣いに驚いて微笑んだ。
「きっと父に伝えます」
「よろしい。では急ぎなさい、アナ。長く引き止めてしまって悪かったね」

家までの道中は何事もなく、翌朝の夜明けにはロッジに帰り着いた。出発してから七日が経っていた。アナは岩棚の陰の奥へ荷車を置き、忍び足で岩の橋を渡った。きっと父は驚くだろう。
しかしロッジはもぬけの空だった。
アナは入り口へ戻り、静かな砂漠を見渡した。
一体…一体どこへ?
アナはすぐに気がついた。あのサークルにいるに違いない。
荷車を置いた場所から狭い渓谷を東へ向かい、むき出しの岩を登る。昇ったばかりの陽の光がアナを照らした。この時間を父が選んだ理由は、日が昇りすぎて気温が耐えられなくなるほどに上がる前だからだろう。
アナの知っている彼であればきっとあそこにいて、色々と掘り返したり歩き回っているはずだ。
ここしばらく父の病気のことであのサークルのことは忘れていたが、タジナーから帰ってきて、アナ自身、あの謎に興味を持っていることに気がついた。
あれは自然のなせるわざじゃない。だが、アナも父親もどうしても説明がつかないなんてことはないと信じていた。あらゆるこの世に存在するものには、かならず理由があるのだ。
岩稜のてっぺんから眺めると、父はすぐに見つかった。サークルのちょうど反対側の端で、朝日の中かがみ込んでなにか試しているようだ。そのシンプルな存在感にアナは安堵した。正直無事ではない可能性すら頭をよぎっていたのだ。だが彼は元気そうだった。
アナはしばらくそのまま佇んで、心配することなしに、彼のてきぱきとした行動を眺めた。まるで贈り物かなにかのように。アナはその光景を熱心に見つめ続けた。しばらくして太陽が次第に高くなっていくことに気づくと、岩を降りて彼に合流した。
「なにか見つけたの?」
父親の見ている場所に影がかからないように気をつけてそばに立ち、尋ねる。
父親はちょっと顔をあげ、にやりと笑った。
「かもしれん。だが答えはまだだ」
アナは笑った。いつもの彼だ。父親は立ち上がり、向き直った。
「アマンジラはどうだった?支払ってくれたか」
アナは頷き、重い革袋を外套から取り出して手渡した。
「喜んでたわ。追加報酬を出すかも、って」
「驚かん。銀を見つけたからな、それくらい出すさ」
「銀!?」
アナは叫んだ。父はなにも言っていなかったし、報告書には自分も目を通していたにもかかわらず、いつもの調査以上のものは無いと思っていたからだ。
「どうして言わないの!」
「俺たちには関係ないことだからだ。俺たちの仕事は岩を調べることで、掘り出すことじゃない」
「私達は岩で生きていくってことね」
「正しい日々の稼ぎは、正しい日々の仕事から、だ」
父は必要なもの以上を得ることを良しとしない人だ。生きていくには十分、が口癖で、アナもそれをよく知っている。誰かを妬むということをしなかった。
「それで体調はどう?」
アナは尋ねた。父の顔色は相変わらず白いままだ。
「良いよ」
父親は目をそらさず答えた。
「お前が行ってから毎朝ここに来てたんだ」
アナは頷いたが、何も言わなかった。
父親は突然思い出したように言った。
「来い、アナ。見せたいものがある」
二人は両側から岩壁が迫る場所の狭い隙間を通り抜け、岩棚のようになっている場所に登った。そこにはなめらかな灰色の一枚岩が壁から剥がれ落ちたかのように、砂の中に半分埋もれて突き刺さっていた。その向こう側には大きな岩稜が砂からせり出しており、浸食された輪郭が陽の光ではっきりと見えた。岩の白さと不規則な影の黒さで、まるで象牙の彫刻のようだ。
「あれだ」
父親は岩稜の足元の影になった部分を指さした。
「あれは…洞窟?」
アナは珍しそうにつぶやいた。
「トンネルだ」
「トンネル?どこに続いてるの?」
「ついて来い」
暑い砂の上を横断しトンネル入口の影の中に潜り込む。明るいところから暗いところに入ったため、目がなれるまでしばらくかかった。アナは父親がランプを点けるのを待ち、中へと進んだ。
「あら」
トンネルはなめらかに十五か二十歩ぶんほど続いていたが、そこで終わりだった。その先は崩れた岩が遮っている。
父親は臆すること無くそのすぐそばまで歩いていくとランプをかざした。アナも壁を調べる。
「火山性みたいね」
「そうだな。ずっと地面の奥深くまで続いているのかもしれん。この岩さえなけりゃな」
アナはかがみ込んで、小さな岩の欠片を拾い上げた。一方の面はガラスのようになめらかで、トンネルの壁と同じもののようだ。
「いつごろ崩れたのかな」
「わからん」
アナは父親を見上げた。
「見せたいものってこれ?よくわからないんだけど」
「ここには手がかりが無いことがわかって、少し広い視点に立ってみたんだ。何がわかったと思う?」
アナは肩をすくめた。
「ここから数マイル北に、地震か…少なくともでかい地殻変動の痕跡があった。多分、この崩れ方からして比較的最近だ。で、このあたりで大きな地震があったのは?三十年前だ。そん時はタジナーも影響を受けた。大したことはなかったがな。それであのサークルの説明がつくかもしれん」
「どうして?」
「地震、ここの落盤、あのサークル。すべては繋がってるんだ。どういう風にかはまだわからんが。だがいつも言っているだろう。全てを知ることは不可能だ。だが俺たちにはこの大地に関する知識がある。もしこの奥に行けたら…」
アナは笑った。
「調査するの?」
父親は手をひらひらと振った。
「調査はできる。それは問題ない。だがこいつは…こいつは一生に一度のチャンスかもしれんぞ、アナ。もしこの現象を解き明かすことができたら、それは誰もやったことがないことだ!」
「それで…どうしたいの?」
父親は崩落した岩を身振りで示した。
「この向こうに何があるかを確かめるんだ」

食事のあと荷車に載せた荷物を解く。
アナは荷の中に、ジャーニンドゥ・マーケットで買った父親へのプレゼントを忍ばせていた。
荷解き中の彼を眺めながら、これまでに父が買ってくれたプレゼントの数々を思い出した。
いくつかは実用的なもので…たとえば小さなロックハンマー。6歳のころだ…そしていくつかは奇抜なもの…黄色と赤の蝶が図柄として描かれた3ヤードの明るい青色のシルクは、去年貰った。
父親は革のケースをしばらく見つめてから、留め金を外し蓋を開けた。
「チェスセットじゃないか!」
彼は顔を輝かせて声をあげた。
「ずっとやりたかったんだ!最後にやったのはいつだったかな?…なんでわかったんだ?」
アナははにかんで、うつむいた。
「時々言ってたのよ、寝言で」
「寝込んでる時にか?」
アナは頷いた。
彼はチェス盤を愛おしそうに見つめた。白と黒に染められた手彫りの駒が、それぞれ別々の小さな木製の箱に収められている。それはまったくもって高級なものではなく、彫刻は雑だし染色も普通なものだったが、そんなことは関係なかった。彼にとってはどんな銀製の彫刻にも及ばないほど素晴らしいものだった。
「遊び方を教えてやるからな」
父親はそう言ってアナを見上げた。
「今夜やろう。一時間ばかり…なに、お前ならすぐコツを掴むさ!」
アナは微笑んだ。思っていたとおりだ。
父が言っていたことを思い出す。アナ、贈り物というのはな、薄っぺらであまり必要ない行為に思えるかもしれん。だがそれは絶対に必要なことだ。なぜならそれは愛情や優しさの表明であり、その「過剰さ」は、人生に単なる無味乾燥な作業以上の意味を与えるものだからだ。もし贈り物がなければ、何事もちっぽけで無意味なものに見えてしまうものさ。
そのとおりなのだ。アナはこの数日で、そのことをよりも深く理解した。
「それで?どうやってやるの?」
父親はアナを見て、崩落した岩の事を言っているとすぐに理解したようだ。ベルトからハンマーを抜き出して振り上げる真似をした。
「こうやってさ」
「どれだけかかると思ってるの?」
「時間ならあるだろ」
「でも…」
「でもじゃない、アナ。急がば回れさ。なに、そんなにかかりゃせん。このやり方が一番間違いないんだ。そうだろ?」
アナは苦笑いして、頷いた。
「まあね」
「よし、そろそろ疲れたし夜まで休むぞ。チェスを始めるまでにリフレッシュしなきゃならんからな!」

その日から、彼らの生活には新しいルーチンが組み込まれた。夜明けの一時間前に起き出してトンネルへ向かい、一、二時間ほど崩落した岩を削る。アナはよく働いた。父は病気のあと疲れやすくなってしまったが、周辺の調査を続けていた。日が昇るとロッジに戻り、簡単な食事のあと、作業場での実験にとりかかる。
幾つもの棚には数年前から集めている標本が並べてある。これらはきちんと分析する時間が取れずに置いてあったものだが、父はこれを利用することにした。別の地域への調査に出かけるかわりにこれらの分析を行って、その結果をアマンジラに送ることにしたのだ。
夕方が近づくと作業を止めて一眠りし、日が沈み涼しくなってくると起き出す。そして食事のあとはロッジの中央にあるリビングで読書をしたりチェスをしたり。
アナは最初チェスの面白さがよくわからなかったが、すぐに父と同じくらい熱中し始めた。さすがに父にはまだ敵わなかったが、自分で気をつけないと夜更けまでやりすぎてしまうほどに。
父が寝てしまってからも、アナは作業場に戻ると次の段階の調査についての計画を立てるのだった。
父は問題ないと言っているが、アマンジラはいつまでも標本調査の報告では満足しないだろう。彼は父の砂漠調査に対して興味があり、報酬支払っているのであって、岩の分析に対してではない。それが富を増やす助けにならない限り。
去年、ロッジの南西に広がる土地の調査を行った事があった。砂漠の真ん中へ向けて三日間歩いた。そこで生き抜くためにもっとも重要なもの、それは十分な計画だ。例えばどこに日光を避けることのできるシェルターがあるか。例えば道中で手に入れることができるものは何か、そういったことを正確に知っておくことだ。全ての食糧、水、装備品は荷車で運ばなければならないし、現地ではだいたい八日から十日滞在するため、合計すると丸十六日分の準備をしておく必要があった。
簡単ではないが、アナは偽りなくこれ以外の生活を望んだりはしなかった。アマンジラは彼らの行い、その価値に対して真に正当な対価を支払っていないかもしれない。それでもアナも父親も他の仕事を求めたりはしなかった。
アナは砂漠を愛するのと同じくらい、岩とその成り立ちを愛しているのだった。
岩は「死んで」いて、動かないものと捉える人もいるが、そうでないことをアナは知っている。岩は他のものと同じように生きている。単に時間の捉え方がゆっくりであるだけにすぎない。
八日目。朝早く、二人はついに待ち望んだ瞬間に到達した。岩を貫通したのだ。それはかろうじて腕が入る程度の穴でしかなかったが、それでも落盤の向こう側に続くトンネルを明かりで照らすことはできた。
その光景に勇気づけられた二人は、いつもより一時間長く、代わる代わる岩の表面を削り続けた。
帰り道で父親はアナに問いかけた。
「もうじき通り抜けられる程度の穴を開けられるだろう。すぐにでも向こう側を調べるか?」
アナはにやりと笑った。
「我慢できないんでしょ?」
「もう少し十分拡げた方がいいと思ってるんじゃないか?」
「さあね」
アナはあるきながら答えた。
「それについて考えるべきとは思ってるわ」

その夕方から日が沈むまで父親は作業場でそのことについてずっと話し続け、アナはついに降参した。このまま永遠に議論を続けるよりはマシだ。
「もうわかったから」
アナはチェスボードを挟んで対面に座る父を見上げた。
「でも同時に向こう側に行くのは一人だけ。そしてロープを使うこと。何があるのかわからないんだから。万一また地震でも起きたら危険だわ」
「ああ、それでいいだろ」
父親はクイーンを動かした。
「王手」
そしてにやりと笑った。
「詰みだよ、お嬢さん」

岩の隙間を十分広げるには二日かかった。狭い隙間だったが、これ以上広げるには少なくともまた一週間かそこらかかるだろう。
「今夜準備するぞ」
父親はランプを隙間にかかげて向こう側を透かし見ながら言った。
「お前はそんなに必要なかろう」
「『お前は』ね」
アナは苦笑いした。また言い合いになるかと思っていたところだ。
「で、私は何を探せばいいの?」
「変わったものがあれば何でもだ。火山性の穴。通気孔。火砕性の堆積物やらなんやら」
「まだ今も大きな火山構造の一部だと思ってる?」
「ほぼ間違いない。こういった通気孔や掘削孔はそういったところでしか見られんからな。ここら一体は溶岩、今はもう地下深く、に沈んじまったマグマが溜まった巨大な盆地だったんだろう。それが深ければ深いほど、地表に表れる特徴は広範囲に及ぶ。超高温の溶岩は岩の最も弱い部分を見つけて通ってくる。断層線とかな。これはまさにそういったもんさ」
「木の根みたいな感じ?」
父親は頷いてちょっと微笑んだ。アナは木というものを見たことがなかった。厳密に言えば木では無いものも含めて。タジナーにある浅根性のヤシだけだ。アナの世界に関する知識のほとんどは本によって得たものか、人に聞いたものだった。世界の狭さ…それがここで暮らす上で最悪なことだった。
歩いて帰りながら、いつものように言葉を交わす。
お互いうつむいたまま、視線も交わさず。
「アナ」
「ん」
「ここでの暮らしを後悔してるか」
「父さんは?」
「俺が選んだことだ」
「他の選択肢があったら、私はそっちを選んでいたと思う?」
「時々な」
「ならはずれ。私は砂漠を愛してるの」
「だが他のことは何も知らない」
「まだここに居たいと思ってるわ」
「本当に?」
「本当よ」

「アナ、ロープを見ろ、引っかかってるぞ」
アナは動きを止め、わずかに反対側へ移動してゆっくりロープを手繰り寄せて引っかかりを外した。落盤にうがった穴を半分ほど抜けたところだが、思ったよりも穴が狭い。なんとか肩は通るが、尻がつかえてしまう。先はまったく見えず、僅かにアナの体と岩の隙間から漏れる明かりによって、ますますその狭さがはっきりとわかる。
アナはなんとか体をねじり持ち上げようとしたものの、ほとんど落下するようにして落盤の反対側の床へと落下した。
ともあれ、少なくとも左腕は自由になった…右腕はまだ体と岩の間に挟まったままだが。
「まだ体が上向きなら回転しろ、アナ。穴は横方向のほうが広い」
アナは父親の言うようにやってみた。
「こりゃもう一週間待つべきだったかもね」
「かもな。だがもう少しだ。ちょっとずつ…そうだ。いけるぞ」
少しずつアナは体をよじって、頭と肩が隙間を抜けるまで後退した。これで腕が抜けそうだ。アナは腕を持ち上げてみたが、まだ抜けきっていないようだ。
「足を掴んでて」
アナは父親がブーツの足首をしっかりと握るのを感じた。
「オッケー。体を回転させて、右手が抜けるかどうかやってみる」
「わかった」
それは難航した。岩はまるでアナを、アナの骨を押しつぶすかのようだ。だが少しずつ体は回転し、床の方へと向くことができた。
アナは何も見えなかった。正面は完全なる闇。だが心配はしていなかった。ただなにか尖ったものの上に落ちたくはないなとだけ考えていた。
「行けそう」
ついに腕が抜けた。
「ゆっくり降ろして…そう、ゆっくり。よし、もう大丈夫よ。抜けたわ」
アナは足首から父親の指が力を抜いて離れていくのを感じた。
「ふう…やれやれ」
アナは体を起こすと振り返り、砂埃を落としながら呼びかけた。
「大丈夫?」
「息が切れた…ちょっと待て」
アナは岩の隙間を覗いた。床のランプの隣に見えていた父親の足はもうそこにはなく、体を壁に預け、片手を胸に当てている様子が見える。
「ちょっと…ほんとに大丈夫?!」
父親は頷いてアナを見た。
「ああ、大丈夫だ…まったく、お前がこんなに重くなってるとは思わなかったぞ」
「本当ね?」
「ああ、続けよう。腰にロープを締めろ。ランプをそっちに寄越す」
アナは言われたとおりロープを拾い、腰にきつく留めた。細いが強いロープで、五百フィートの長さがある。この簡単な探索には十分だろう。アナは満足し、隙間からランプを受け取った。
「こいつもだ」
続けて渡されたのは、父親の防護ハットだった。
ランプを床に置いてハットをかぶると、予想に反してそれはアナの頭にちょうどいい大きさだった。ストラップを締めてランプを拾い上げ、父親に見えるようにかざした。
「いいだろう」
父親の目はランプの明かりで輝いて見えた。
「一時間経ったら呼ぶ。だがしっかり目は開いておけよ、アナ。チャンスを逃すな」
「わかったわ」
「ノートは持ったか?」
アナは一番上のポケットを叩いた。
「よし。じゃあ行け。ここは寒い」
アナは微笑むと、奥の暗闇を向き、ランプを掲げた。

暗い湖を見晴らす書庫…その長い格子窓からは、遥かドニが…そのシティの明かりが、巨大な洞窟の壁に沿って何段にも張り付いているのが見通せる。
大きな暖炉に灯された炎の揺らめく明かりが、その周りに座る四人の男を浮かび上がらせていた。大きなアームチェアに深く腰掛け、その顔には炎によって金と黒の鋭いコントラストが投げかけられている。一時間前に食事を終えてから今まで、彼らはここで長く話し込んでいた。
「どうしてそう言えるのかわからないな、ヴェオヴィス。確かなことなどなにもないじゃないか。君の言う根拠はどこにあるんだ」
そう言う友に向き直ったヴェオヴィスは、手の中のルビー色に輝くワイングラスを揺らした。
「しかし単純にそうなんだ、フィハール。根拠もなにも、自明の理さ。君は我々が接続できる『時代』における既知の種族は、道徳的に振る舞っていると主張する。それには同意するよ。そのとおりだ。…だが彼らがそう振る舞うのは我々が彼らを支援しているからだ。彼らの道徳心は生まれつきではなく、教育されたものだ。そして我々は、ドニは、それができる唯一の存在だった。数千年にわたって、我々はそれをよくわかっていたのさ」
ヴェオヴィスは他のメンバーの方をわずかに振り向いた。
「スァルニル、君はメンテナーだな。そうじゃないか?君の第一の仕事は、我々が接続する世界の原住民に、安定した道徳的な社会の枠組を構築することじゃないか?」
スァルニルはすでに中年世代で、ギルドでもそれなりの地位にあり、監獄の時代プリズン・エイジの管理者を経て、現在は崩壊したり不安定な時代の処理を担当している。彼はヴェオヴィスの言葉をしばらく思案したのち、肩をすくめた。
「それでも、フィハールの言葉にはいくらかの共感を覚えるね。我々は自分自身についてそこまで確信を持って言い切れるだろうか、論理的に?」
「馬鹿馬鹿しい!」
ヴェオヴィスは笑って身を乗り出した。
「ドニの影響、ドニの手引きがなければ、どんな『時代』も汚らしい野蛮人だらけの僻地だけさ!間違いなくね。スァルニル、そんな事例いくらでも見てきただろう?そんな堕落、退行を!我々は油断せず監視しなくてもかまわないというのか?」
「必要だし、そうしている」
スァルニルは同意した。
「じゃあ想像してくれ、地表のことだ。もしそこに人が暮らしているとしてだ、数千年もの間、どんな道徳的指導も受けてこないまま発展してきた人々だ。彼らはおそらく、いや間違いなく、野蛮人だ。動物よりは多少マシかもしれないが、ほとんど基本的欲求の奴隷さ。そして我々は数え切れないほどの『時代』で見てきただろう、野生の動物がどう振る舞うかを!」
アトラスはこれまでずっと黙って聞いていたが、ここでようやく口をひらいた。
「ドニほどではないにせよ、彼らも生来の道徳観は持っているのでは?」
ヴェオヴィスは振り向いて微笑んだ。
「その可能性は極めて小さいと言っているのさ。そうじゃないか?アトラス」
「…まあね」
「そらみろ!」
ヴェオヴィスはかぶせるように言った。
「わかるだろう、それを考えると俺はぞっとするんだ。社会全体が欲望と暴力によって統治されているなんて!」
「そして脅し」フィハールが付け加えた。もう半分納得しかけているようだ。
「そのとおり!そしてそのような社会に、真の知慧が発達する余地があるだろうか?大方予想される地上人は、無愛想で、不平を喚く人種で、まともな会話をしていてもすぐ月に吠え出す野犬の集団のようなものさ!」
ひとしきり笑いが起きた。
「では、評議会は決定を再確認すべきだと考えるのか?君は」
アトラスは尋ね、そもそもの会話の発端に戻した。
「地上人に対して、ドニは何もするべきではないと?」
「実際そうする」
ヴェオヴィスは力強く断言した。
「そして正直に言えば、トンネルの終端は単に封鎖したままにはしない。完全に破壊するつもりだ」
「そうか」
「なあ、アトラス」
ヴェオヴィスは身を乗り出した。
「君があの遠征に感傷的な気分を抜きに語れないのは理解できるし、俺もそのことには敬意を持っている。だがあの事業は間違いだった。評議会はあれだけ熟考した上で間違えたんだ!」
アトラスは黙ってワインを飲み、暖炉の火を見つめた。
「君を傷つけてしまったな」
ヴェオヴィスは立ち上がった。
「すまない。謝るよ。きっと、俺が無神経なせいだ」
アトラスはヴェオヴィスを見上げて悲しそうに微笑んだ。
「いや、ヴェオヴィス。君は見たままを語った。俺もそのことに敬意を持っている。いずれにせよ、俺も結局君が正しかったのかもしれないと感じるようになってきたんだ。あれは間違っていたのかもしれないと」
ヴェオヴィスは微笑み返した。
「じゃあきっと次の評議会では俺に投票してくれるね?」
アトラスは肩をすくめた。
「かもね」

だいたい百歩ほども下っただろうか。トンネルは再び崩落によって通れなくなっていた。だが今回は左側に暗い隙間が口を開けている。それはトンネルの壁に入ったクラックで、アナがやろうと思えば通り抜けられそうなくらいには大きかった。
アナは左の壁に手をかけてその内側へ伸び上がり、ランプをかざした。
クラックの先は深く、床面は急勾配で暗闇へ向かって下っていた。かすかに冷たい空気が感じられる。遥か下の方、遠くで水の音と、なにか別の…不規則なノックのような音が聞こえる。コツ、コツ、コツ。岩に弱くのみを打ち付けるような音だ。
アナは振りむいてやってきた道を確認し、そのスロープはまだそれほど急勾配ではないと判断するとランプをハットに留めて固定して下り始めた。転がり落ちないようにしっかり両手で壁を確保しながら、一歩ずつ踵で足元を確かめる。
クラックは思ったよりも長く続かなかった。二十歩ほどだろうか。その先は岩で塞がれているように見えて、アナはしばらくここで行き止まりかと考えたが、よく見ると突き当りの直前で隙間がほぼ90度ほど折れて続いているようだ。角を曲がったアナは小さく驚きの声を上げた。
「大空洞だわ!」
父親に聞こえるかどうかはわからないが、アナは叫んだ。
「すごく大きな空間よ!」
コツコツ鳴る音はかなり近く、水の音も大きくあたりに鳴り響いている。
空洞の床面に降り立ち、アナは振り返ってあたりを見渡した。ランプの光が届く範囲は狭かったが、その端に小さな水の流れがあってちらちらと光を反射しているのが見えた。
水。砂漠ではなによりも大切なもの。父がアマンジラに見つけてあげた銀なんかよりも。
アナは腰につないだロープを意識しながらその水の流れに近づくと、かがみ込んでその透き通った水を掬い、口をつけた。
氷のように冷たい。そして澄んでいる。泉の水よりも上質だ。
アナはこの発見を父に伝えるのが楽しみで思わず笑顔になった。そして振り返って何の気なしに天井を見上げた。天井までは二十ヤードはあるだろうか。そして気づいた。
あれだ。コツコツ鳴る音の源がそこにあった。それは明るい赤色で、天井からぶら下がった…なんだろう…大理石のようになめらかだが薄く、先端になるほど膨らんだ、血のしずくのようななにかだった。それが風に揺れて空洞の天井にぶつかり、コツコツ音を立てているのだ。
アナは眉をひそめて振り返り、風の源を探した。空洞は向こう側に行くほど狭くなり、じょうごのような形をしている。風はその先から吹いてきているようだ。
アナはその風を嗅いでみて、新鮮さに驚いた。普通このような洞窟の空気は、湿気と岩によってむわっとしたカビのような臭いがするものだが。
アナはハットに固定していたランプを外して掲げ、ぶら下がった赤いものの正体を確かめようとした。それは頭上の岩に引っかかっているか、もしくは岩から染み出してそのまま凍ったように見える。
アナはノートを取り出して膝に拡げた。
書く内容は、アナが見たものをそのままだ。洞窟に関する先入観や知識を極力排除して。アナはそれが重要であることを経験から知っていた。後に見返したとき、忘れられてしまうような事柄がなにかのヒントになったりする。たとえすべて無駄になる可能性があるにせよ、全てを書き留めておくことが大切だった。一旦ノートを置き、ロープを確認する。クラックにひっかかっていないことを確認すると、アナは安心して洞窟の先、じょうごの細くなっている方へ向かって歩き出した。両側に目を配り、何ひとつ見逃さないように。
三十歩ほど進んでアナは立ち止まった。頭上に僅かな違和感を感じる。
洞窟が狭くなるところのすぐ手前。そこに赤い物体が大きく染み出し広がっている箇所があった。それは厚く、硬化した幕のようで、溶岩流のように岩から飛び出していた。
だが溶岩ではない。アナの知っているどんな物質のたぐいでもなかった。
それを見てアナは砂漠のサークルを思い出した。なにかこれらには関連性がある、それがどんなものかはわからないが。
一刻も早く父にこれを伝えたい。
アナはその物体の前に立ち、ランプの光を投げかけた。血のように赤く、その赤の中にわずかに虫がはったような黒色が含まれている。
たぶんこれは溶岩の一種だったのだろう。
アナはハットにランプを留めて、ベルトからハンマーを取り出すと、壁に足をかけてその物体を削り取ろうとした。
これは一体何?
ハンマーは物体になんの影響も与えられなかった。柔らかそうに見える。そして実際柔らかい。だが全く削り取れない。なぜ?跡すらつかないなんて!
これは溶岩ではない。でも、だとすれば何だというの?
少なくとも標本が手に入らなければ、これを誰にも伝えることができない。
アナは二歩ほど下がって、洞窟の壁をじっくりと眺めた。もしかしたら、いやきっと、もう少し小さなやつがあるはずだ。ハンマーでなんとかできそうな…しかし物体はなめらかなひとつづきで、他の場所には見当たらなかった。
アナは振り返り周囲を見渡し、笑顔になった。あそこだ。ほんのちょっと先の床に、新鮮な血が滴ったかのような、小さな赤いビーズが列になって転がっている。アナは上を見上げた。どこかにこの滴りを生む細い筋があるはずだ。強力な圧力によって、岩の隙間から押し出され、そうしてこれらは作られたはずだ。
アナはかがみ込み、今度こそ赤い物体を岩の隙間から手に入れた。標本を四つ、最も大きなものはアナの拳ほどの大きさがあった。
最後のひとつをナップサックに放り込みかけて、もういちど明かりの下で眺めてみる。その物体はアナの手の中でぐにゃりと曲がった。スポンジのようでいて、大理石よりも頑丈だ。不思議なことに、光源よりも反射光のほうが輝いてみえる。
ともかく、そろそろ戻る頃合いだ。これを研究するためにはまず分析をしなければ。
アナはナップサックを肩にかけ、右手でロープを掴むと来た方へ戻り始めた。

他の皆はすでに帰った後、クヴィーアの広い廊下の途中、大きな石づくりの階段の下、小さな入江が見える大きなガラス扉の前にヴェオヴィスとアトラスは立っていた。
「今夜は泊まっていくといい、アトラス。明日の朝一緒に戻ろう。どうせ評議会の会議は昼過ぎだ」
「そうしたいが、何人か会わなければならない人がいる」
「別にいいじゃないか。会議の準備があると言えばわかってくれるさ。そんなことより、お前とはもっと話したいことがあるんだ」
「俺もだ。だが俺は自分の言葉は曲げんぞ」
ヴェオヴィスは微笑んだ。
「わかってるさ。お前の正直さと、その言葉の正しさも。だが会議の前に、ギルドホールの俺のオフィスへ是非一緒に来てほしいんだ。お前が投票する前に、楽しい話がしたい」
アトラスも微笑み返した。
「もう決まってるんだ、ヴェオヴィス。俺は棄権する」
「棄権だと?」
「これがベストだと思うんだ。俺はどちらの主張にも納得していない。君の言うようにすべきかもしれないし、ただの感傷的なためらいかもしれない。それでもこの票を投じることは、マスター・テラニスへの裏切りのように思えてしまうんだ」
「ならばそうするといい。お疲れ様、友よ」
二人は互いの手を握った。
「また明日」
「また明日…ありがとう。今夜はとても楽しかった」
「こちらこそ。さあ行け。俺がお前に腹をたてる前にな」

「さっぱりわからん」
父親は顕微鏡から目を離した。
「こんなものは今まで見たことがない。これは…人工物だ」
「あり得ないわ」
アナは顕微鏡をかわりに覗き込んだ。
「じゃあこれが一体何なのか教えてくれ。こんな構造の石を見たことがあるか?結晶でもないし形成物でもない。少なくとも、自然のプロセスによるものじゃあない。これは作られたものだ!」
アナは肩をすくめた。
「私達の知らない形成過程があるのかもしれないじゃない」
「だとすりゃ俺は岩のことをなんにもわかっちゃいなかったって事になる!」
「ふふっ、そうかもね」
「あぁん?…お前だってそう思っちゃいないだろうが」
「私にもこんなものをどうやって作るのかわからない。どれだけの熱と圧力が必要になるか…。それはそうと、何がこの物質を洞窟で染み出させていたんだろう?さっぱりわからないわ」
「うむ…」
父親は再び考え込んだ。その顔に疲れの色が濃く滲んでいる。二人はもう十時間近く、この難題に取り組んでいるのだ。
「もう休まないと」
アナは言った。
「続きは朝からにしましょう」
「ああ」
父親は答えた。
だが明らかにまだこの問題が頭から離れていないようだ。
「かならず答えはある…完全に俺たちが見落としている何かが…」
しかしなにを見落としているというのだろう?
二人は通常行なわれるような試験を行った。実験を二度繰り返し、十回調べる機会を得たが、いつも同じ結果が返ってくるだけだった。まったく奇妙な物質だ。

父親はその夜、いつにもまして陽気だった。
よく笑い、冗談を言った。
そして朝、彼は死んでいた。
アナは花の夢を見ていた。青い花。父に描いた絵と同じ。
起き上がりキッチンに移動し、ボウルやタンブラーを並べながらちらっと窓の外を見たとき、その朝焼けの光景になにか違和感を覚えた。
父の姿を認めて、アナは作業場の横の床にドサッと座り込んだ。
ちょっと触れたその肌は冷たく石のようで、すぐに死んでいるとわかった。
暫くの間アナは父を仰向けにすることができず、真っ黒な心のまま呆然としていた。
まばたきをして、再び父を見る。
父は夜のうちにここまで来たにちがいない。アナには何も聞こえなかった。
そして彼は死んだ。静かに。なにひとつ言い残すことなく。
アナは目を閉じ、嗚咽を上げはじめた。

大ギルドホール正面ロビーはざわついていた。遅れてやってきたアトラスは人混みの向こうにヴェオヴィスの姿を認めると、側へいそいで駆け寄った。
「ヴェオヴィス、なにかあったのか?」
「エネア卿だ。昨夜病に倒れられたそうだ」
エネア卿はトゥラ卿の名代として評議会の議長を務めていた。
彼の不在、そして代理の任命も無いことで評議会は進行が不可能になっているようだった。
「では本日の評決はなしだな」
「噂が正しければ一、二週間は延期だろうな。危篤らしい」
「なんということだ…」
年長者たちはだれもが悲嘆にくれているようだった。エネア卿はここ三百年もの間、懲罰よりもその類まれなユーモアのセンスでもって評議会をコントロールしてきた人物だった。彼を失うことは、評議会にとってこの上ない損失と言えた。
「我々はどうするべきだろうか」
アトラスは人で溢れた前庭を眺めながら尋ねた。
「解散だろうな」
ヴェオヴィスが答えた。
「だがまだやるべきことがある。今のうちに、一人二人でも考えが揺れているメンバーを引き込んでおきたい。すまないが失礼する」
アトラスは頷き、ヴェオヴィスは歩み去った。
ヴェオヴィスと違い、アトラスは強い政治的主張を持たなかった。アトラスは若くしてギルドの若手代表として評議員に任命されたが、それは彼自身がそれを強く望んだからではなかった。
三十八歳にしてマスターになった。実際ハイスピードな出世だ。ここ七百年の間で、最も若いマスター選出である。そして三年前、自分が仲間たちによって評議員に選出されたことを知った。予期せぬ名誉だ。なにしろ他の対立候補者たちはほとんど彼の倍は歳をとっているのである。このときアトラスは五十五歳。
そしてアトラスは今ここにいる。あらゆる物事の中心、評議会に。いまだ言葉の影響力はほとんどないに等しく、彼の投じる一票もドニ政府の巨大さから見ればわずかな重みしか持たないが、そんなことはまったく気にならなかった。
アトラスにはヴェオヴィスという友がいるのだ。
柱の並ぶ廊下の向こうで、ヴェオヴィスが軽々と同僚の間を移動し、崇高で強力なドニ社会に対していかに気軽に交渉を行っているかを眺めながら、アトラスは彼と再開して以降、なんと近くで過ごしてきたのだろうと不思議な思いにかられた。
もし数年後、数十年後、アトラスに最も親しい友人は誰だったかを尋ねたとしたら、彼はラケリ卿の息子以外の人物を挙げたかもしれないが、現在それはヴェオヴィスだった。少なくとも周囲の人間には、彼らは分かちがたく結びついているように見えた。
一心同体…だがその性格は全く違っていた。そしてそれこそが二人の関係をうまく続けさせる要因だったかもしれない。二人は相手のことを完璧に理解していたのだ。
二人が敵同士のままであったなら…夜遅くまで議論したり、意見の相違を受け入れたりすることも、譲歩をすることもなく、ついに想いを共にすることもなく、やがて評議会にとっての悲劇となっていただろう。多くの人々が今、ヴェオヴィスとアトラスはドニの未来を紡ぐ種であると認めていた。
彼らの友情はただ彼らだけのものではなく、偉大なるドニにとっての明るい兆し、その証となっていた。
「アトラス、調子はどうだい。お父上は息災かね?」
アトラスは振り向いて驚いた。本当に驚いた。
自分がいるこの場所が、どれほど高位な世界なのかに気づいて。
「は、はい。とても元気です。ありがとうございます──グランドマスター・イエナ」

すべてが終わった後。アナは荷車に持ち物をまとめ、橋の向こう側からもう誰もいないロッジを振り返り、最後の別れを行っていた。
ここがアナの家であり、宇宙であった。ここで生まれ、誰もが羨むであろう素晴らしい父と母から愛を注がれ、学び、育った。今、その二人はもういない。
ここに残るものは石だけだ。石と塵と灰。
灰…父の灰は小さな壺に封入され、慎重に荷台に乗せてある。その隣には母のものが。
もう忘れ物はない。アナはどこにでも行ける。
例えばタジナー。ヨーロッパへ戻るという道もある。いずれにせよ、ここではない。もう父はいないのだ。
アナの心は重かった。しかし同時に、いつかはこのことも通り過ぎた過去になるであろうことも知っていた。完全にではないにせよ過去の出来事になり、思い出すたびに胸が痛くなるだろうが、いずれ痛みも和らいでいくだろう。時間とともに。
荷車は重く、タジナーは遠いが、アナは身を乗り出し、荷車を引いてゆるい坂を登り始めた。ハーネスのロープが肩に食い込む。アナは父の言葉を思い出していた。
千里の道も一歩から。
少なくとも父の思い出は、言葉は、その偉大な知恵は十分に残されている。
アナは涙に濡れた頬を拭いて微笑んだ。父はここにいる。私の頭の中に。
私もまた、塵か灰になるその日まで。
アナ、何が見える?
狭いスロープを登りきり谷を抜ける。アナの返事は砂漠の静寂の中にはっきりと響いた。
「果てしない砂漠が見える。正面には、月が黄昏の最後の光の中に浮かんでいる。そして父さん、あなたが見える。どこを見ても。そこに父さんが見えるよ」

アナはサークルの方へと向かっていた。タジナーへ向かうには遠回りになるが、あえてもう一度見ておきたかったのだ。この先どこへでもいけるにせよ、少なくとも思い出は持っていくことができる。
荷車を狭い峡谷に隠し、アナはサークル目指して砂へと踏み出した。満月が足元を照らしてくれる。サークルは、月明かりの中ではますます不思議なもののように見えた。
はたしてこの地上に、これを説明できる理由が存在するだろうか?
またはに。
アナはサークルの真ん中にしゃがみ、サークルについて父親が最初に言ったことについて考えた。これは実際、単に揺れたというものではない。「振動」したのだ。だがなぜそんなことが起こったのだろう?音は純粋な振動だ。だがどんな音、どれほど強い音なら、岩盤を通してこんな現象を起こすことができるのだろうか。
きっと答えはあの洞窟にある。そこにあり、まだ見つけていないだけなのだ。
正直、再びあの洞窟を探検するなんて考えることすら正気の沙汰ではない。今回はたった一人。なにかあっても助けは来ない。
しかしこの地を離れ、その先で答えを見つけようとすることは不可能だ。
行かなければ。そして見なければ。
背中のナップサックには必要なものがすべて入っている。父のハット、ランプ、火口箱、ロープ。見なくてもわかる。アナは思わず笑った。これらはもう体の一部のようなものだ。そして父の人生そのものでもあった。
もし何も見つからなかったらどうする、アナ?
多分、何も見つからないだろうとアナは思った。そしてタジナーへ向かい、その後はまたどこかへ流れて行く。謎は謎のまま、後に置き去りにして。
銀色に輝く岩稜に、トンネルはかわらず暗い口を開いていた。思わず入ることをためらわせる。しかしアナは恐れなかった。どんな恐怖が待っていようと、それがどうしたというのか?
アナはランプをともしてトンネルに足を踏み入れた。落盤はそのままだった。アナと父が開けた隙間も。
しばらく物思いに耽り、アナはひとつ頷いた。一度ランプを消し、先にナップサックを隙間に押し込む必要がある。暗闇の中では難しいが、前に一度やったことだ。
ハットをナップサックから取り出してかぶり、紐をしっかりと顎に結ぶと、アナはランプを吹き消した。辺りは突然の暗闇に包まれる。
ランプを注意深く足元のナップサックに入れ、口の紐をしっかり締めると落盤の隙間へ押し込む。しばらくして、ナップサックが隙間の向こう側に落ちたドサッという音がした。
隙間を抜けるのがどれほど難しかったかを思い出し、今回は顔を下にして手を前に突き出す形で潜り込んだ。前回の失敗は、隙間がどれくらいの幅か見誤ったことだった。腕を伸ばしておけばよりスムーズに通り抜けられる。残る問題は向こう側に落下する時のことだ。
アナは足を隙間の縁に引っ掛けると、隙間の先、岩の表面の凹凸に手を這わせて体を引っ張り、同時に首をすくめて、向こう側へと転がるように抜けた。
暗闇の中で、隙間からの落下は記憶よりも長い距離に感じられ、アナは軽くパニックに陥った。その後、床にしたたかに打ち付けられた衝撃は激しく、アナはしばらく起き上がることができなかった。背中には先に落としたナップサックがあまり心地よくない形で食い込んでいる。衝撃で手首をひねったらしく、また後頭部と首もズキズキと傷んだ。でもまあ、深刻なダメージではない。
状態を起こしたアナは、ナップサックに手を伸ばして顔をしかめた。左手首から肘にかけて痛みが走る。腕を引っ込めて手首をゆっくりと回し、指を開閉する。大丈夫そうだ。
「まったく」
アナは自嘲した。
「本当、馬鹿なことをしてるもんだわ」
アナは頭を切り替えた。
ここからだ。
静かな声が頭に響く。
服装を整え、ランプを取り出して再び点す。
明かりの中で、振り向いて今しがた落下した距離を確かめる。四、五フィートといったところだろうか。下手したら手首が折れていた。
ツイてたわ。
アナはハットにランプをくくりつけ、ナップサックを肩に担いで立ち上がった。
これで洞窟の中をよく見て回ることができるだろう。ここがどのようにあったのかも。
そして何かを見つけたとしたら、その時には…どうするの?
正面の暗闇に向き直ると、初めて来た時と同じく微かな風の流れを感じた。
この先どうするか、決断しなければならない時が来るだろう。
しかしまずはこの先を見なければ。

くさびの左側、周りの岩から突き出している赤みがかった塊のそばに穴を見つけた。幅は五フィート、高さは二フィートといったところだろうか。まるで噛み付いてきそうな口のように見えるその穴の下部は例の奇妙な物質が厚く積もっており、なめらかな唇のようだ。
アナがこれを見つけたのはずいぶん経ってからだった。洞窟をくまなく、それこそなめるように調べたものの、期待するものはなにもないと思っていたところだ。しかしこれは明らかに異質だ。溶岩のような石…他のものはすべてこういった洞窟ではありふれたものばかりだった。
ランプをハットから外し、口のような穴に差し込む。中にはもうすこし広い空間が広がっているようだ。洞窟のなかの小洞窟、といったところだろうか。その床部分は完全に赤い物質で覆われており、天井は光沢のある黒い岩だ。こういった石は溶岩の通り道でよく見られる。
アナはなんとなくわかった。これらはすべて溶岩のようにドロドロに溶けた状態だったのだ。それがこの空間に流れ込んで蓋をした。大体そんなところだろう。この想像は大きく外れていないはずだ。
アナはその空間に体をねじ込み、しばらくはい進んで立ち上がった。天井は鐘のような形になっている。岩でできたポケット、または奇妙な獣の胃袋の中にいるような気分だ。
突き当りでは再び天井が低くなっているものの完全に床と接してはおらず、また別の隙間があるようだ。
穴はそこまで近づくと屈み込み、ランプをかざした。隙間は岩の奥へと続き、十ヤードほど行ったところで赤い物質の固い壁で閉ざされていた。
ただ、まだ風は吹いてくる。まちがいなくこの隙間の奥からだ。鼻をひくつかせてみる。空気だ。それも澄んだ、香りのない空気だった。この空気は再び地表へ昇っていくのだろうが、不思議なのは空気に砂漠の匂いがしないことだった。アナの知る砂漠の匂い。焼け焦げ、乾いた味を口に残すあの匂いがしないのだ。この空気はみずみずしく、ミネラルがほとんど含まれていないのだろう、甘いといってもいい。
なにかある。なにかが間違っている。
ランプが消えかけて揺らめく。アナはランプを体の後ろ側に置いて正面に向き直った。暗闇、いや違う、正面の壁が発光している!その光は微かで、しかし不思議な揺らめき方をしており、まるで光そのものが暗闇に浮かんでいるようだった。だがアナは間違わなかった。
どこか上の方に光源がある。
ランプを取り上げて十分明るくなるまで芯を引き上げると、アナは這いつくばって隙間を進み始めた。トンネルの突き当りは赤い物質で覆われている。だがその直前、左側に別な裂け目が口を開いていることがわかった。アナはそこに滑り込むと、右手の赤い物質に沿ってカーブを描くように進んだ。カーブは唐突に終わったが裂け目はその先も続いており、左側へ直角に曲がっていた。
風がとつぜん強くなり、甘い香りの新鮮な空気があたりを満たした。どこかからガスの吹き出すようなシューッという音がする。
その先で裂け目は花のように大きく開けていた。
右手の赤い壁は溶け去ったようになくなっており、アナの頭上にはまた洞窟のような空間が…
いや。
いや、これは洞窟じゃない。床は平らで、壁は自然のものではない規則性がある。
アナは裂け目から這い上がり、ランプを高く掲げた。
そして目の前の信じられない光景に、思わず声を漏らした。

自室でアトラスはブーツを脱いで椅子に深く沈み込んだ。未婚のマスターに与えられる一般的なギルドのアパートだ。いくつかの据え付け家具つきで、むき出しの磨かれていない岩壁にはあちこちにギルドのタペストリーが掛けられている。厚く編まれたタペストリーには、岩を穿つ機械が描かれている。部屋の三面に設えられたアルコーブ状の広い棚は、アトラスの書籍…ギルドの事例や機械に関する技術書、結合技術、測量技術、伸縮限界、切断力と透磁率、もちろん膨大な火山学技術…そういったもので埋められている。
中にはいくつかの歴史書や物語も。イラスト入りの古いドニの物語だ。最後の章はアトラスの側の小さいテーブルに置かれている。昨夜アトラスがそこに置いたのだ。
アトラスはそれを手に取るとエンボス加工された革カバーをしばらく見つめ、再びテーブルに置いた。
今は物語を読む気分にならない。今必要なのは誰かの存在だった。気分を救い上げてくれるような、そんな誰か。
それはさほど難しいことではない…誰かに声をかけて…しかしこの数日、アトラスはそうすることが出来なかった。
アトラスはため息をついて立ち上がった。落ち着かない。
場合によっては数日の休暇をとり、家族の時代を訪れてもよかった。これまでも休みを取りたいと思ったときはそうしてきた。仕事はうまくいっているし、評議会まで数日過ごしたところで誰も文句は言わないだろう。
アトラスは微笑んで再びブーツを履くとドアへ向かい、使用人の一人を呼んだ。使用人が待っている間にメモを書き付け、折りたたんで手渡した。
「これをマスター・テラニスに」
使用人はお辞儀をして立ち去った。
アトラスは部屋を一度振り返り、後ろ手でドアを閉めた。

一瞥したところ洞窟は小さかったが、非常にしっかりしていた。というよりも最初に目に入った場所は、いうなれば控えの間のようなものに過ぎなかったようだ。その先にはもっと大きな部屋があり、その壁にはかすかな緑色の光が揺らめいていた。
その部屋の中央には、巨大な二つの機械が鎮座していた。黒く、恐ろしいほどの存在感のある形状。その巨大な両腕は今にも襲いかからんばかりに振りかざされ、まるで番人のようにそびえ立っている。
実際、しばらくアナはそれらが本当に「番人」なのだと思っていた。
巨大な、輝く硬い甲羅に覆われた虫のような番人なんだわ!
…落ち着いて、アナ。
どんな虫もこれほど巨大に成長はしない。まして灼熱の砂漠の下では。加えてこいつらには眼がない。
眼がない。代わりに…窓がある。
アナが畏怖を感じたのはその大きさではなかった。蒸気駆動の機械は父の本で見たことがある。巨大な鉄のプレートが金属鋲で留められた、そういったもの…しかしこれは本で見たようなものとは全く違っていた。なめらかで、洗練されたデザイン。これまで見たあらゆるものとまったく異質なものだ。流線型のラインはまるで動物や虫のようで、長い世代をかけて行われてきた改良の歴史が、そのデザインからは読み取れた。
側面にはまるで船のように長いフランジが走っており、楕円形のくぼみが散りばめられている。下部には長い切れ込みが…排気口かなにかだろうか?まるで肉食獣のような奇妙な雰囲気をまとわせている。
近づくほどに畏敬の念に駆られる。それ以外にアナはこれを推し量るすべをもたなかった。左手にあるマシンの暗い側面は、少なくともアナの身長の五倍はある。もう一方、少し後ろに寄りかかったほうのマシンはさらに大きい。
二つのマシンはかなり異なった形をしている。まるでそれぞれが別の目的のためのもののようだ。近いほうのマシンはもうひとつより単純な形で、四本の脚それぞれが、円錐形の口から生えている。もう一方はより不気味で、カニのように体節をもち、厚い装甲で覆われていた。
アナはその暗く、鏡のように磨かれた表面に触れてみた。寒気を覚えるほど冷たい。そして意外とざらざらしている。なにかにこすりつけたら、やすりよりもよく削れるだろう。
目を細めてランプを近づける。その奇妙な素材は周りの風景が映り込むかわりに光を吸収し、鮮やかな深い暗緑色を放っている。
アナは視界の隅、マシンの右手…床面近くに何かがあることに気づいた。なにかのシンボルだ。かがみ込んで、その浮き彫りを手でなぞる。
シンボル…いや文字?装飾の模様かもしれない。
どちらにせよそれはこれまで見たどんな言語とも似つかないものだった。
ナップサックからノートを取り出し、すばやく書き写す。描き終えたスケッチを並べて置いてみる。
うん、正確に描けた。
ノートをしまいこんでランプを持ち上げると、ゆっくり周りを眺めてみる。これまでのように、このパズルのピースを探すのだ。
これまでのように。岩と砂のサークル。奇妙な赤い「充填剤」。暗いがはっきりと光輝く暗緑色の石。そして今、これらのマシン。
他の手がかりはしかし、何もなかった。すくなくとも意味のあるようなものは。これらは古代人が使っていた遺物だろうか?もしそうなら、なぜ他になにも地上に遺っていないのだろう?これほどの偉大な技術を持っていた人々がいたとすれば、もっと多くの痕跡が存在しているはずだ。それにこれらは古代人の遺物というには、ちょっと新しすぎる。
巨大なマシンを見上げたアナは、なめらかなその横腹の向こうにコントロールルームのようなものを見つけた。それは長く、スリット状の窓…たしかに窓だ。マシンの上面から突き出すように窓があり、その下部はマシンの前面につながっていた。
ロープはナップサックの中だ。マシンの上部に投げて反対側で固定すれば、マシンを登って内部を見ることが出来るかもしれない。アナはロープを取り出し、マシンの正面にまわって屈みこんだ。排気口の下部に小さな突起が十~十五フィート間隔で並んでいる。よし、ここにロープを結びつけよう。
作業を終えたアナは数歩さがって、片手でゆっくりロープを振り回した。先におもりを付けたいところだったが、手持ちのものはランプと火口箱くらいしかない。どちらもおもりにするには脆すぎる。
なんとかロープを車体の上に投げ上げて、反対側に落とさなければ。一投目、失敗。二投目は多少マシだったが、結果は大差なかった。アナはロープの終端を拳大になるまで何度も結び、それをおもりにすることにした。こんなものかな。オッケー。もう一度。今度はうまくいった。
余ったロープにナップサックを結びつけ、機械の反対側へ周り、ロープの端を機械の下部に何度も巻き付けてたるみをなくす。そして再び立ち上がり、ロープに全体重をかけて確かめてみた。よし。
ここまでは順調。
しかしその次が一番の難関だった。ロープは上部でしっかり固定されているわけではないため、登っている途中で横に滑っていったとしたらたちまちまずいことになる。アナはロープをピンと張り、ブーツをしっかりとマシンの壁にかけて登り始めた。いつ滑っても対処できるように緊張していたが、意外にもロープは接着されているかのように滑ったりはしなかった。おそらくは素材の摩擦係数の高さによるものだろう。アナはその事実に勇気づけられ、さらに登っていった。
マシンの上に到達すると、アナはほっと一息ついた。大きなスリット状の窓が目の前にある。その先はマシンの正面にあたり、急激にカーブして落ち込んでいる。
アナは手と膝を使ってゆっくりとマシンの正面方向へ向かって這って行った。窓の縁は目の前だ。慎重に、厚い透明な板を透かしてマシンの内部を見下ろす。ゆらめくランプの光で、内部は不気味な影が踊るように見えた。アナは眉をひそめて、何があるのかを正確に理解しようとした…二つの座席…すくなくとも座席に見えるもの。チューブのような、骨格のようなものがその座席に覆いかぶさっている。その正面に、なにか操作盤のようなもの。だがそれがコントロールのものだとして、どちらが頭でどちらが尻尾なのかもわからなかった。操作盤は黒く、なにか隠されているのかもしれないが、奇妙なシンボルやくぼみのほかにはレバーやボタンといったものは見当たらなかった。
アナはもう少し船室の中を見ようと身を乗り出したが、周りは壁があるだけで、ドアのようなものは見当たらなかった。誰であれこれを操作した者は、みなこの窓から入ったということだろうか。
このマシンを作ったのは人間ではないのではないか?
奇妙な、岩でできた宇宙人のような生きもの。そんな突然の想像にアナは身震いした。それまでアナはこの発見に対して畏敬の念を抱いているばかりで、これらのマシンが何を意味しているのか考えていなかった。しかし今、アナは不安を抱き始めた。もしあそこに見える奇妙な二つのウェビングシートが、一つの生きもののために設計されているのだとしたら?それはこのマシンに負けず劣らず、巨大でグロテスクな生きものに違いない…。
いや。
アナは自分に言い聞かせた。これを造ったのがなんであれ、それはとっくの昔に死んで、去っている。これは新しく見えるだけだ。しかし…その恐ろしい想像はほんの一瞬にすぎなかったが、アナの心を凍えさせた。
アナはじりじりと後じさりして再びロープを掴み、マシンの上から降りた。ロープを回収してしまい込み、もう一台のマシンへと向かう。最初のマシンの用途は外観から読み取ることができなかったが、こちらは見た目にもはっきりとしている。それぞれの巨大な脚の先に、大きなドリルがついている。これは切断機カッターだ。
正面に立ってみる。
ある疑問が頭から離れない。これを使っていた誰かは、なぜこんなトンネルを掘ってその後封印したのだろう?彼らはこの先、地の底でなにか見つけたのだろうか?
もしかしたら、ここはお墓なのかもしれない。
お墓だとしたらかなり高位の者のお墓だ。そう、それ以外考えられない。アナは興奮した。きっとここは古代の偉大な皇帝の墓なんだわ。もしそうならこの先に何があるのかは誰も知らないということになる。そして彼らがこれほどのマシンを作れる人々だったということは…一体どれほどの富が、どれほどの埋蔵品が納められていることだろう?
アナはゆっくりとマシンの周りを歩きながらマシンを見上げ、その荒々しくも優雅な形を眺めた。まるで岩の奥深くで育ったなにかの生きもののようだ。
その姿のあそこも、ここも、すべて造られたというより自身から発生し、成長したものであるかのように見える。まるで翼を外殻で覆った虫のよう。それが実在する虫の形をベースに造られているにせよ、まったく奇妙で、強そうな姿だ。そして用途はわからないが、二、三フィートはあろうかという大きな膨らんだ構造がそのボディにはくっついていた。
アナは立ち止まった。あれは?ちょうどこのマシンの向こう、この大きな部屋の壁の低い位置、暗緑色の石で覆われた壁面に、完璧な円形の黒い穴が口を開けていた。近づいてみると、穴はひとつではなかった。ひとつめの少し先に二つ目の穴、さらにその先には三つ目が。トンネル、疑いの余地もなくトンネルだった。
どこへつづいてるんだろう…。
心拍数が上がる。ひとつめのトンネルに近づく。穴は小さく、立って歩くのは難しそうだ。だがまちがいなく自然にできたものではない。部屋と同じく、トンネル内部の壁面も暗緑色の石で覆われている。そして下の方へ、暗闇へと続いている。
二つ目のトンネルも同様だった。三つ目は…アナは驚いた。それはただのトンネルではなく、中には部屋があった。広く、空っぽの棚が部屋の両側の壁に並んでいる、岩を掘って造られた空間だった。
アナは部屋を出て、のこり二つのトンネルを見た。
どちらに行くべきだろう?
どちらもやめておこう。とりあえず今は…これ以上の探索にはもっと十分な準備が必要だ。それが正しいやり方で、父から教わったことだった。
しかし、ということはまた来た道を戻り、狭い岩の隙間をくぐり抜けて砂漠を横切り、荷車を隠した場所まで歩いて行かなければならないということだ。そして二時間はかかる旅を、月明かりの下ではなく灼熱の陽の下で行くことになる。
何のために?アナはそれほど奥深くまで行くつもりはなかった。穴がどこへ続いているかを見たいだけだ。
五百歩。あとそれだけ行ったら引き返そう。そこまで行かないまでも、なにもないことがわかったらすぐ戻ろう。
そうしよう。で…どちらに行こう?
はっきりとした理由はなかったが、アナの足は右側のトンネルに向かっていた。
一、二、三…アナは歩数を数えながら、左手で壁に触れながらしっかりとした足つきでトンネルを降り始めた。七、八、九…
五百歩だけだ。それほど遠くない。そう決めたことで心が軽くなったアナは、ランプの明かりの先に永遠に続くような闇の中を走るように進み続けた。
八十二、八十三、八十四…

決めていた五百歩をとっくに過ぎても歩き続けた結果、アナは道に迷ったことを自覚した。認めたくはなかったが。最後に左へ曲がった後で、アナはすぐに戻ったがそこは先程通った場所ではなかった。それか少なくともそこを通った記憶はなかった。そこは広間のような空間で、小さいが完全な円形の部屋だった。
歩数は一時間は前に数えるのをやめてしまった。いや、二時間前だろうか?ここにアナがいることなど誰も知らない。アナにわかるのは、頭の中に描いてきた地図がまったくアテにならなかったということだけだ。一度間違えて、後はもうダメだった。ここは迷路だ。完全に絡み合ったトンネルの迷路。すべて同じように見え、どこにもたどり着かないようだった。
墓。ここは墓のはずだ。またはその一部か。そしてこの迷路で、アナは完全に迷ってしまった。
私はここで死ぬ。それはもうはっきりと確信していた。
アナは立ち止まり、よろめいて壁に手をついた。考えはまとまらなかった。
考えろ、アナ。どうすべきか考えるんだ。
アナは顔を上げた。その声ははっきりと頭に響いた。本当に父の声が聞こえたような気がした。
「無理よ」アナは答えた。「怖い…」
恐怖は思考の敵だ。思考を止めるな、アナ。すべきことを決めるんだ。
アナは恐怖を拭い去り、頭を空っぽにした。そしてゆっくりと平静を取り戻すと、ベルトからハンマーを取り出し、握った。
「道に印を付けて」
いったんハンマーをベルトに戻し、今度はノートを取り出した。
「地図を、作る」
最初からそうしておくべきことだったが、今更言っても始まらない。今できることはゆっくりでも地図を作り、道が枝分かれする前の真っ直ぐなトンネルにたどり着くことだった。どれくらい時間がかかるかわからない。だが規則的に、全てのトンネルの壁に印をつけ、あらゆる分かれ道に数字を記していけば、いつかはこの迷路のパターンが浮かび上がってくるかもしれない。
可能性は僅か。だがこれが最善の道だ。
アナは振り返り、辺りを見回した。トンネルは傾斜して下っており、すこし先で分かれ道になっている。アナは分かれ道へ近づくと、チュニックのポケットにノートを仕舞い、ベルトからハンマーとノミを手に取った。
一撃目を振り下ろす。硬い。しっかりとノミを壁に対して垂直に立てたにもかかわらず、壁面にはまったく傷がつかなかった。アナは驚きながらも何度か繰り返した。しかし結果は変わらなかった。暗緑色の表面にはひっかき傷すら残っていなかった。
標本を採取しようとした時と同じだ。
アナは呻いた。これだけが最後の希望だったのだ。今、アナは完全に迷い、抜け出せないことを知った。
石を紙で包め。紙を使うんだ。四角い紙を。
そうだわ!アナはノートブックを取り出すと、小さな四角い紙を見つけてそれぞれの道の入口の脇に置いた。壁に印はつけられないが、これでも同じことになる。アナはすぐにノートのページを半分に折りたたみ、再び半分に折り、ちぎって四つの紙を作り出した。これじゃ足りない。手持ちの紙はすぐに使い果たしてしまうだろう。もっと小さな紙片にしなければ。アナは紙片の一つをまた半分に折り、それを四度繰り返した。これでいい。手持ちのノートブックのページはだいたい五十ページほどだから…おそらく足りるだろう。
アナはしゃがみ込み、紙片に文字を書き込み始めた。AIからAI6。二ページにわたってそれぞれの文字を配置し、Bへ移った。これはこの迷路をいくつかのエリアとして捉えるためのやり方だった。もしこれらの文字が書かれた場所へ戻ってきたら、次はC。こうすれば、今地図上でどこにいるのか、まだ進んでいない方向はどこかを知ることができる。どの道がどの方向へ続いているかを正確に知るまで。
アナは顔を上げ、挑むように微笑んだ。あきらめるものか。

ギルドハウスはドニ市街のもっとも古い地区に存在し、周りはすべて主要なギルドのホールに囲まれている。その石段からは無秩序に広がるドニ市街と、その先の湾にそびえる、伝説の王ケラスの名がつけられた巨大なアーチを見渡すことができた。
石段の先、大理石でできた柱の列を抜けると不規則な形をした巨大な玄関ホールがあり、その床にはドニの中心である大洞窟を描いた大きなモザイク地図が描かれており、更にその奥には比較的小さい部屋があり、そちらにも同様に洞窟のモザイク地図がある。ただしこちらはより小さい洞窟を描いたものだ。
玄関ホールの天井はさほど高くはない。だいたい成人男性の身長の二倍程度だ。しかしその造りは目をみはるもので、薄い紫色の大きなアーチ型の石梁が四方の壁に浮き彫りにされ、そのレースのような繊細な造りに、見上げた者を驚かせるものだった。
メインルームの右側には大きなアーチ型のドアがあり、その周囲を囲う石には木々をかたどった彫刻が施されており、まるで森の茂みが自然のアーチを形作っているようだった。その先が評議会の議事堂だ。
ドニには長い間「主洞窟を東に向かって岩を掘ってはならない、だからギルドハウスは再設計しなければ」というジョークがあった。事実、東側には安定したマグマだまりがあったのだが、そこから数千年にわたってエネルギーを取り出しつづけた結果、現在はゆっくりと冷却されていることがわかっている。
左右それぞれ、三フィートの厚さと十フィートの高さをもつ巨大な一枚岩でできた扉を抜けると、ドニのどんな部屋よりも印象的な場所に至る。巨大なドーム状の天井、それを支える巨大な腕のように上方にのびる十八本の柱、席を兼ねた広い石段が円形の窪地の周囲を埋めるように広がっており、その中心には玄武岩でできた五つの大きな玉座があった。
それを取り囲むように、壁面には十八のギルドそれぞれを示す大きな盾が、古代から続くギルドの印とともに掲げられている。
今日、玉座はすべて埋まり、周囲の石段でできた席もすべて評議員で埋まっていた。いよいよ討議が始まるのだ…「よそ者」、別の言い方をすれば「地上人」との接触を禁止する布告を解除すべきかどうかについての。
議論はゆうに六時間を超えたが、いよいよ終盤を迎えていた。若きヴェオヴィス卿は、五元老の目前、二段目の自席で立ち上がり、ドニを維持するために何が必要か、ということをかいつまんで述べた。彼の自信に満ちた意見は、古くからの評議員たちを頷かせ、かつ笑顔にさせるものだった。ヴェオヴィスが座ると一斉に、賛成を表すサインである、石段を叩く音が議事堂いっぱいに響き渡った。ヴェオヴィスは謙虚に微笑み、静かに称賛を受け入れた。
玉座を挟んで右手、六段ほど上がったところでアトラスは決議の時間が迫っていることを心配していた。ヴェオヴィスはまだ、アトラスが棄権するつもりだと思っているだろう。確かにアトラスはそうするつもりだった。この議題は非常にデリケートな問題であり、一票や二票ですら結果が変わる可能性がある。しかし今、アトラスは棄権することはできない、と思っていた。たとえヴェオヴィスとの友情を損なうとしても、自分の正しいと思うことを行わなければ。
だが、それがわかっているからこそ、アトラスは悩んでいた。
議事堂はしばらく喧騒に包まれていたが、エネア卿がゆっくりと玉座から立ち上がると、一斉に沈黙した。
「ギルドマンよ」
エネア卿は重い病を患っており、その声は疲れてはいるが、いまだ力強さを保っていた。
「さまざまな意見、すべて聞いた。皆の中の多くの者が、すでに自身の考えを決めていることだろう。しかし、これは重大な問題である。我々が投票という、取り消すことの出来ない措置を取る前に、私はこの問題に関してもっと非公式に議論を深める機会を設けるべきだと感じている。そこで、投票まで一時間、一度解散とする。我々は玄関ホールへと戻り、一時間後にここへ戻り、投票を実施する」
その決定に何人かは失望した様子をみせ、それを見せない人や、頷く人もいた。そう、ドニは忍耐強い種族であり、「性急に」議事堂で決定されたかもしれない多くの問題は、玄関ホールの、より非公式な雰囲気のなかで解決されてきた。
エネア卿以外の元老たちも立ち上がり部屋を出ていった後、すぐに他の評議員たちも続いた。議事堂が厳粛と尊厳の場であるとすれば、玄関ホールは喧騒の場であった。人々はグループからグループへ忙しく歩き回り、自らの派閥に引き込もうと賑やかに説得を続けた。
ここ数年、これほど一つの問題に関して熱く情熱が高まったことはなかった。投票までは一時間しかない。両陣営はここぞとばかりに、最後の説得に力を注いだ。ホールをうろついていたアトラスは、しばらく大きなアーチの下に立ち、用意された椅子に座るエネア卿と、その側に立つヴェオヴィスを見つめていた。ヴェオヴィスは年寄りのメンバーの一団を相手にしており、彼らが自分より百歳も二百歳も上ということも全く気にしていない様子だった。その大胆さにアトラスは感銘を受けた。きっと彼はいつか中央の玉座に座るだろう。エネア卿が座っていたあの席に。
議事堂に戻る前にアトラスが考えを変えたことを伝えなければならない。だが今ではない。仲間たちに囲まれている今ではなく、一人になったタイミングで。
アトラスは歩きだし、行く手の他のギルドマンに笑顔で挨拶をした。ホールの半ばまで来たところで、行く手でなにか騒ぎが起きていることに気がついた。
アトラスは首を伸ばしてよく見ようとした。どうやら門番が誰かと押し問答しているようだ。しばらくすると突然、門番は一歩下がって乱入者に道を開けた。それは高位のメッセンジャーギルド員のようだった。その片手には封印された手紙が握られている。
周りの評議員たちも次第に乱入者の存在に気づき始め、玄関ホールは次第に静かになっていった。皆の視線が乱入者に集中する。彼の向かう先はエネア卿のようだ。
通常、玄関ホールと議事堂は神聖な場所であり、評議が行われている最中にメッセンジャーの入場が許されたケースはこれまで聞いたことがなかった。
つまり、それほどに緊急性の高い大きな事件だということだ。メッセンジャーがエネア卿の前にたどり着く頃には、ホールは完全な静寂が支配していた。男は跪いて手紙を掲げるように差し出した。
エネア卿が身振りをして、ヴェオヴィスが手紙を受け取った。そして封印を破り、エネア卿に手渡した。エネア卿はゆっくりとその一枚の紙を広げ、顎を持ち上げるようにして読んだ。しばらくして、わずかに目を見開き、顔を上げた。その目には戸惑いの色があった。
「皆のもの」
エネア卿は評議員たちに呼びかけた。
「我らの決定はすでに下されたようだ。訪問者が現れた。地表から人間がやって来たのだ」
水を打ったようにあたりは静まり返った。
続いて、部屋は大きな混乱に包まれた。

第三章へつづく

The Book of Ti'ana © 1996 Cyan, Inc.

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