Book of Ti’ana 第3章─断層

第三章 | 断層

その日の終わりに、評議会の首脳たち…五元老と十八のグランドマスターたちが、何をすべきか決める特別会議を行った。
会議が行われている間、噂はドニの都市じゅうを駆け抜けた。大多数の者は「侵入者」の性質に対しての関心。その生きものから、メンテナーがどんな様子を観察するかを予想した。ほとんどの者がその形は人のようであることを認めたものの、中には熊と猿の合いの子であると主張する者もいた。
こういった「ニュース」はどれもこれも根拠のないものであることはアトラスもわかっており、確実な事実だけを拾い上げるようにしていたが、あまりにもでたらめな噂が多すぎるので、ヴェオヴィスに直接尋ねてみることにした。夕刻、地底湖の明かりが暗くなるころ、アトラスは部屋を出て上層街の路地を抜け、記述者ライターズギルドのホールを目指していた。
ヴェオヴィスか、他の誰かでもいい。何が起こっているのか知っている元老かマスターが見つかるかも知れない。
古代から存在する記述者ギルドホールの門にたどり着いたアトラスは、執事がヴェオヴィスにアトラスの訪問を伝えに向かっている間、正門前の小さな中庭で待った。
数分後、アトラスは戻ってきた執事に、ホールの中へと案内された。高い柱に挟まれて伸びるモザイク画の道によって二等分されているここはリ・ネーレフのホールと呼ばれており、最古の五大ホールのうち、最初に建てられたものだ。その他の古代のホール同様、記述者ギルドのホールは独立した建物ではなくさまざまな建物や部屋の複合体であり、その一部は大洞窟の地上面から遥かに深い位置まで掘られて作られている。
奥に進むと細く長い階段が見えてきた。その石段はすり減り、あまりにも長い時間…ドニの六千年の歴史の中で、数えきれないほどの人々が通ったのだろう…まるでワックスのように溶けた形をしていた。
ここに二千人ものギルドマンが暮らしている。食事をし、寝起きしている。ここで教育を受け、日々のギルドの仕事を遂行している。そして…幾つもの本の部屋と、巨大な書庫がある。このような場所は、ここを除いてドニのどこにもない。
歴史ある廊下を歩きながら、アトラスは記述者ギルドの後ろに横たわる歴史の重みを感じていた。記述者は自ら特別な権利を主張したことなどない。だが明らかに評議会では他のギルドよりも大きな発言権を持っていた。それは十八のギルドの中で最も格式が高いという自負であり、メンバーたちもそのように振る舞っていた。
将来の夢は記述者。そう考えるドニの少年たちは多い。
執事の歩みが遅くなり、ある扉の前で止まった。彼はアトラスを振り返り、お辞儀をして言った。
「こちらのお部屋です」
執事がノックすると、中からヴェオヴィスの声が聞こえた。
「入りたまえ!」
執事は扉を少し開け、中に呼びかけた。
「お邪魔して申し訳ありません、ギルドマスター。測量ギルドより、マスター・アトラスがお見えです」
「お通ししろ」
執事が開けたドアの中へ、アトラスは進んだ。
ヴェオヴィスは広く天井の低い書斎の奥で椅子に座っていた。あらゆる壁は本に埋め尽くされており、彼の父、ラケリ卿の肖像が巨大なオーク天板の机の後ろに飾られている。背の高い二つの椅子にはそれぞれ男が座っていた。一人は歳をとっており、一人は若い。アトラスは、年配の男が誰か思い出した。リアニスだ。ヴェオヴィスの家庭教師であり相談役。そして若い方はスァルニルだった。ヴェオヴィスの友人で、メンテナー。
「やあ、アトラス」
ヴェオヴィスは立ち上がり、顔いっぱいに笑顔を浮かべた。
「よく来てくれた」
アトラスの後ろで静かに扉が閉まる音が聞こえた。
「突然の訪問を許してくれ、ヴェオヴィス。君なら何か知っているんじゃないかと思って」
ヴェオヴィスは部屋を横切ってアトラスに近づき、手を握った。そして一歩下がり、椅子に座るよう促した。
「ちょうどこの瞬間に現れるなんてな。スァルニルもたった今来たところなんだ。評議会首脳の審議が終わったらしい。数時間もすればなにかしらの発表があるだろう」
「それ以上の情報はないのかい?」
椅子に座ったヴェオヴィスの顔からは笑顔が消えていた。
「評議会の前に、特別聴聞会が行われるだろうということだ」
「聴聞会?どんな類の?」
ヴェオヴィスは肩をすくめた。
「俺がわかっていることは、よそ者が尋問されるということ、そして評議員として我々はそれに臨席できるということだけだ。おそらく地表の状況についての質問がなされるのだろう」
「彼はドニ語を話すのか?」
「いや、全くだ。それと、彼じゃない。よそ者は女だ」
アトラスは驚いて目をしばたたいた。
「女?」
「少女さ。まだ若い…やっと幼児から抜け出たくらいの、という感じだ」
アトラスは眉をひそめて首を振った。まだほんの少女が?一人で地表からここまで?まったく信じがたい話だ。
「だがドニ語を話せないなら、どうやって尋問するんだ?」
「俺の知ったこっちゃないさ」
ヴェオヴィスの返事には僅かな皮肉が含まれていた。
「だが彼女は言語ギルドに引き渡されるそうだ。奴らは女が発する奇妙な音を調べようとしてる。もっとも、空腹時以外にも鳴くのかどうか怪しいものだがな」
「君はそう思うのか」
「なんだって、アトラス。まったくもってそう思ってるよ。全身毛に覆われた、比較的大型の骨格動物だとね」
「毛に?」
ヴェオヴィスは頷いた。
「まあそれはただの推測だが、しかし十分予想されると思わないか?なんであれ、環境から体を保護するものは必要だろう?」
「それはそうだが」
「それに、そこに魅力を感じる習性をもつ動物もいるらしいじゃないか」
笑いが起こったが、アトラスは黙っていた。「彼女」がどんな種族であれ、一体どんな事情が彼女にトンネルを下ってくることを強いたのだろう。そうでなくとも、一体誰に予想できただろう。
「彼女に会うことは出来ないかな」
「どうだろうな」
ヴェオヴィスは続けた。
「我々のような者が聴聞会より前に彼女に面会することは難しそうだ。スァルニルによれば、首脳陣の半数は彼女をまっすぐ牢獄の時代へ送り、この事態を終わりにするべきだと考えているらしい。ただ、エネア卿が個人的に、そうならないように仲裁しているということだ」
「だが、ただの少女じゃないか」
「アトラスは優しいな」
スァルニルが口を挟んだ。
「まったくお優しい。少女、確かに少女かもしれん。だが彼女はドニ人ではない。我々と同じような知性や感性を持っているとどうして言える。ただの少女かどうか、君にどうして分かる?彼女が、その稀な存在が、ドニをこんな騒ぎに陥らせているんだ。今や巷はこの話でもちきりで、この問題が片付かないかぎり他の話はすべてストップだ。まったく許容できない。彼女の訪問はドニにとって悪い出来事だ。市民に混乱をもたらすだけだ」
スァルニルの激しい言い方がアトラスには不思議に思えた。
「スァルニル、本当にそう思っているのか?」
「スァルニルは正しいよ、アトラス」
ヴェオヴィスが静かに言った。
「我々は冗談めいて話しているが、実際この件は深刻だ。そして俺の意見もやはり、彼女をどこかへやってしまうことだ。社会に影響を与えないような場所に」
アトラスはため息をついた。
「君の意見はわかった。確かにこの件は人々に混乱をもたらす。だが地表の状況を知る機会を自ら閉ざすのは、大きな損失じゃないだろうか?」
「居住可能な環境であるということはわかった。それでは不十分か?」
アトラスはうつむいた。この件で彼らに譲歩したくはなかった。
「まあ落ち着けよ、アトラス。いずれにせよこの件は俺たちがどうこうできる話じゃないだろう?聴聞会を開いてその後どうするか決定するというのは、もう首脳陣が決めたことだ。俺たちは言語ギルドの奴らが─いい奴らさ─例の生き物との意思の疎通に失敗しないことを祈ろうじゃないか。」
ヴェオヴィスの顔にはからかうような笑みが浮かんでいたが、それはゆっくりと消えていった。
「これは厄介な問題になるぞ、アトラス。絶対に。間違いなく厄介な問題に」

ギルドマスター・ヒーミスは個室の扉の鍵を閉めると、「生徒」のほうを振り向いた。彼女は後ろの狭い机に座り、黙って緊張している様子だ。彼らが与えた明るい青のローブを着た彼女は、囚人というよりは若い従者のように見えた。
「体調はどうですか、アーナ?」
「いいです、マスター・ヒーミス」
彼女は答えた。まだ若干発音が怪しいものの、ずいぶんましになった。
「Thoe kenen, Nava」(ご機嫌はいかがですか、マスター?)
ヒーミスは満足し、微笑んだ。
彼ら言語ギルドは、彼女の言語の単純な翻訳に取り掛かっていた。毎日、周りの物や単純な動作をドニ語と照らし合わせようとしたのだが、驚くべきことに、彼女は逆に自ら物を指し示し、身振りを交えてそれらの名称を伝え始めたのだ。その頭の回転の速さに、彼らはみな驚かされた。八週が経つころには、彼女は基本的なドニ語のフレーズを話せるようになっていた。正直、それはまだまだ赤ん坊のようなものだったが、彼女がやって来た場所を考えると驚くべきことであった。
十二週となる現在では、ほとんど流暢に話せるようになっていた。彼女は日に日に語彙を増やし、新しい知識を要求してきた。
「今日はあなただけですか?マスター・ヒーミス」
ヒーミスは向き合って座った。
「後ほどグランドマスター・ジーランがお越しになるよ、アーナ。だがそれまでは君と私だけだ。…じゃあ、今日は何をしようかな?」
彼にとってはまだ奇妙な邪悪さを感じてしまう、アナの黒い瞳が見つめ返してきた。
「先日話していた本…Rehevkor(リーヘヴコー)でしたっけ。それが見たいです」
その質問にヒーミスはひやりとした。彼は彼女に、ドニ語の辞書について語るつもりはなかった。ドニのやり方についてあまり多くを伝えることはできない。だが彼女はヒーミスの警戒を思わず解いてしまうような、良い生徒だった。
「それは難しいね、アーナ。その手続には評議会の認可が必要なんだ」
「認可?」
ヒーミスはうつむいて苦笑いした。
「いや、ええと、認可というか…うーん、君にリーヘヴコーというものがあると知らせてしまったのは私のミスだ。口が滑った。もし他のマスターがこれを知ったら…」
「まずいことになるのですか?」
ヒーミスは頷いた。アナは真剣に見つめている。
「そうですか…私はもう何も言いません、マスター・ヒーミス」
「ありがとう、アーナ」
「いいえ、あなたは私にとても優しくしてくれましたから」
ヒーミスはふたたび頷いたものの、何と言っていいかわからず黙り込んでしまった。そんな空気を振り払うように、アナは言った。
「一つ質問してもいいですか?マスター・ヒーミス」
「私に答えられることなら」
「私という存在をどうお考えですか?他のマスターたちも含めて、という意味で。本当は私のことをどう思っているんでしょう?」
それは予想外で、変わった質問だった。彼は彼女のことを面倒な存在だと考えたことはなかった。
「正直に答えましょう。彼らの多くはあなたを始めてみた時、にっこり笑う原始人として見ていました」
ヒーミスはアナの反応を窺った。アナはその意味を理解するように考え込んでいるように見えた。
「ではあなたは?マスター・ヒーミス。あなたはどうお考えです?」
ヒーミスはアナの目を見ることが出来なかった。それでも、彼女の真摯さの前に嘘をつくことは出来なかった。
「私も同じ考えだった」
しばらく沈黙が流れた。
「ありがとうございます、マスター・ヒーミス」
「…だが、今は違う」
「ええ」
「もし君がよければ、私は…聴聞会で君の弁護をしよう」
アナは微笑んだ。
「マスター・ヒーミス、やっぱりあなたはとても優しくて、信頼できる人です。でもその時が来たら、やはり私のことは私が話さなくちゃ。私が原始人なんかじゃないということを…そうでしょう?」
ヒーミスは彼女の態度に感銘をうけて頷いた。その強さの根底は、彼女のこれまでの人生を物語っているようだった。
「頼んでみるよ」
ヒーミスは静かに言った。
「頼む?」
なんのことかわからず、アナはヒーミスを見つめた。
「リーヘヴコーの件を」
「でも…」
「気にしないで」
ヒーミスは、彼女の考えに比べれば、そんなことは些細なことに過ぎないと思った。
「どちらにせよ、我々は君を何の準備も出来ていない状態で評議会へ向かわせる訳にはいかないからね、アーナ?」

アナは部屋の窓の前に立ち、外に広がる大洞窟を眺めていた。
今いるこの場所はアーラットと呼ばれているらしい。陰鬱とした風景は、アナの心を沈ませるばかりだった。鋼鉄製の窓枠は四フィートの厚みがあり、見える景色も岩、岩、そして岩ばかりで、それ以外といえば小さな赤錆色の池が、この鉄灰色の風景の中では目立っており、唯一目を引くものだった。
今日、マスター・ヒーミスは優しく接してくれた。彼は友人と呼べるかもしれないが、彼は大勢のうちのたった一人に過ぎない。彼がどれだけ親切であるとしても、この奇妙な薄明かりの世界においてアナはひとりぼっちで、囚人のままだった。一日が三十時間の長さをもち、季節が移ろうことのないこの世界で。
アナはため息をついた。珍しく意気消沈していた。出来る限り言葉を学び、なにか役に立つものは無いかを探し続けてきた。その作業は楽しくすらあった…だが未だにここがどこで、どんな人々なのかわからないままだ。
振り向いて、扉へ向かう。ここでは全てが石で出来ている。扉もそうだ。ベッドは石の板だし、岩壁を掘って造られている。小さなシェルフテーブルだって、石から切り出されている。ベッドには薄いブランケットが四角に畳まれて置かれている。そして枕。テーブルの上には水差しと、椀が一つ。
アナは石の寝床に腰をおろして膝をかかえた。しばらくそのままぼんやりと床を眺めていたが、はっと顔を上げた。
なんの音も予告もなく、いつのまにか扉が開いている。そして一人の老人がそこに立っていた。背が高く、威厳が有り、ワインレッドの模様が入った黒く長いマントに身を包んでいる。その模様は、アナを捕縛した警備員が着ていた服にも入っていたものだ。
その両眼は他の人々同様に薄い青で、その顔もまた他の人々同様骨ばって彫りが深く、繊細な磁器で出来ているようだった。灰白色の長い髪が、これまた他の人々同様、きちんと額の高い位置で後ろになでつけられていた。
老人。これまでに出会った誰よりも年老いている。薄い唇、青ざめた冷たい目からは、数百年の積み重ねを読み取ることができた。
彼が口を開くのを待ち構えていたが、彼はただ見つめるだけで、しかももう十分とでも言うように視線は部屋の中へと移った。彼の後ろの廊下にはマスター・ヒーミスと警備員が一人立っているのがちらりと見える。彼が一歩進み出るのと同じくしてアナも立ち上がり、言葉を探した。
「すみません…あなたを描いてもいいですか」
老人は少し驚いたように振り返った。
「スケッチブックが…ナップサックに入っていたんです。木炭と一緒に。もし返してもらえたら、時間を潰すのに役立つんですが」
老人はわずかに目を細め、踵を返すと部屋から出ていった。扉が静かに閉じる。
アナは再び座り、さっきよりも沈んだ気分になった。老人の顔からは無感情な冷たさしか読み取れず、その目から感じ取れたのは、アナの運命が閉ざされたということだった。
「で、どうするの?」
アナは頭上の誰かに聞かせるようにつぶやいた。今はもうあまり恐怖を感じていない。アナの思考は落ち着きをとりもどしつつあった。そしてあの老人の顔を思い出した。
あの驚いた顔、細めた目…一瞬彼と通じたものは一体何だったのだろう。
「あの」
アナは顔を上げ、驚きのあまり返事をするのに時間がかかった。
声がするまでその女性の存在に全く気づかなかったのだ。
「こちらを」
女性はそう言って部屋を横切り、テーブルに盆を置いた。温かそうなスープと焼き立てのパンの香りが漂い、アナはつばを飲み込んだ。
女性が後ろに下がると同時にアナは立ち上がり、これまでの質素な食事との違いに驚いた。盆は食べ物でいっぱいだった。ルビー色の液体が入ったタンブラーに、ミルクもある。そしてパンなど。
アナは女性にお礼を述べようとして振り返ったが、女性は既にいなかった。入り口には無表情の警備員が立っており、何かをアナに差し出している。それはスケッチブックと木炭だった。
呆然としてそれを受け取り、感謝を込めて頷いた。これまで百回以上、なにかを尋ねたり頼んだりしても、一切聞いてもらえなかったのだ。
扉が閉められる。
アナは受け取ったものを置き、盆を膝に移して食べ始めた。
彼は聞き届けてくれた。でも、これは一体どういう意味なのだろう?
どんな囚人もある程度経ったものは多少自由が許されるようになるのだろうか?そして今後はこの寒々しい石牢で一生を過ごすことが決まったというメッセージ?
もしそうなら、耐えられるだろうか?
少なくともスケッチブックは手にいれた。これまで六ヶ月の間に考えたことや見たものを書き記すことができる。そしてマスター・ヒーミスの授業で、あの奇妙で楽しい言葉たちに取り組むことができる。
そこでアナの動きは止まった。口の中の食べ物を噛むことも忘れて…あの顔だ。あの老人の顔。もしそれを描いたら、あの老人が何者で、何を求めているのかを理解する手がかりになるかもしれない。母がかつて言っていた。男の顔つきには秘密が隠れていると。
石のような顔だった。その表面を削り取ることができたら、その下には何が隠されているのだろうか。
アナはテーブルに盆を戻してあくびをした。突然どっと疲れが襲ってきた。スケッチはひと眠りしてからにしよう。
アナは石床に見を横たえて毛布を被り、目を閉じた。そしていくらも経たないうちに眠りに落ちていた。

部隊長の男は、感銘を受けたようにしばらくじっとスケッチを眺めていた。そこには老人の顔が描かれている。男には、その絵は完璧に特徴を捉えているように思えた。そしてスケッチブックを閉じると振り返り、開いた扉の方へ進むようにアナを促した。
「来い。その時が来た」
アナは木炭をポケットに入れると、男に向き直った。
「どこへ連れて行かれるのかしら?」
男は答えず、ただ扉を指し示した。
廊下へ出るとすぐに警備隊に囲まれた。正面に二人、後ろに二人。ただ今回は手が縛られていないのが救いだった。
隊長が号令をかけると彼らはすみやかに行進を始め、アナはペースを合わせるために早足になる必要があった。
固い岩盤に穿たれた長い長い階段を下り、巨大な石扉の玄関を抜けると、大きな一枚岩で出来た広場となっていた。アナが囚われていた石の洞窟は、さらに巨大な洞窟の一部に過ぎなかったという事実に、アナはただ驚くばかりだった。
一行の歩みがわずかに遅くなった。広場はその三方が垂直に裂け目へと落ち込んでおり、鎖の橋が遙かむこうの洞窟の壁面に口をあけている円形のアーチ付きの入り口へと架かっている。橋の下、裂け目の底には黒い脚をした漁船のような巨大な機械がうずくまっているのが見えた。機械…そう、地上近くで目にしたあの機械とよく似ている。それらはずっと下の方で、何かを建設している様子だった。いくつもの噴煙口やがれきが積み重なり、まるで巨人が積み木をしているかのようだ。
アナは高低差を怖がりはしなかったが、仮に足を踏み外しても、きっとこの警備隊は気にしないだろうな、と思った。彼らは規則正しくきびきびと歩き、アナの歩みが遅くなるとたちどころに小突いてきた。
対岸のアーチの模様が識別できるほど近づいてくると、アーチの下はただの岩の壁だということがわかった。磨かれた黒い大理石だろうか?アナはこの行進が一旦そこで停止するだろうと思っていたが、隊長の歩みは止まらない。まるでそのまま岩の中へ入っていくかのように。
アーチの真下に到着すると、隊長は突然右に進路を変えた。岩壁の暗がりの中に、どうやら下への階段が伸びているようだ。階段を底まで降りると扉があった。隊長が扉の鍵を開いている間、アナは彼に質問しようとした。
どこへ連れて行こうとしているのか。
向かう先で何が起こるのか。
しかし隊長はまるで機械のように無表情で、全く取り付く島がなさそうに見えた。指示に従い、効率的に、静かにアナを輸送するだけの機械。そして彼の部下たちも完全に彼と同じように、その顔には一切の感情がなかった。
アナは理解した。彼らは私のことが嫌いなのだ。言葉を交わしたいなどとは露ほども望んでいないのだ。
扉が開いた。小さなオイルランプが一定間隔で並ぶジグザグに折れ曲がった岩壁の通路を抜けると、一行は再び「外」に出た。さっきとは別な洞窟のようだが、こちらも広大な空間だ。
アナは周囲を見回した。右手は岩の絶壁で、先の方は霞んで見えない。左手はアナのすぐ足元から百ヤード以上先まで、渦く水が急勾配の裂け目の中を流れていた。こちらの洞窟は先程までの洞窟よりも明るいようだ。しばらくアナはそれが何故なのかわからなかったが、原因を知って驚いた。水だ。水が発光しているのだ。あちらでも、こちらでも。
むき出しの岩の斜面を下ると、その先には水面に突き出るような形で岩の桟橋があり、黒く長い一艘の船が係留してあった。じっと席に座っている四人の漕手らしき人は皆ワイン色のマントをまとっている。船尾には同じワイン色の旗が架かっており、その中央には金色の奇妙で複雑なシンボルが描かれていた。アナは船によじ登りながらその複雑さをしげしげと眺めた。
「ここは一体どこなの?」
振り向いた隊長の目はやはり冷たかった。どうせ答えてくれないだろうと思っていたが、意外にも彼は答えた。
「ここはドニだ。その主洞窟だ」
「あら」
返事したことには驚いたが、結局よくわからないままだ。ダーニー?そんなふうに聞こえたが、ダーニーってどこ?はるか地下深く?いや、ありえない。人は地下深くで生きては行けない。いや、それとも…彼らは生きてきたというの?本気で?アナはこの六ヶ月の間、自分が何を見続けてきたか思い出した。岩。岩だけだ。
係留ロープが外され、漕手たちがボートを離岸させると、彼らの一糸乱れぬ動きに合わせて船は素晴らしいスピードで水路を進み始めた。
アナは振り向いて、上を見上げた。巨大な岩の壁が巨大なドームを形作るように上へ伸びている。その壁は上へ、上へ、遙かに上へと続いていてその終わりは暗くなっていてよくわからない。
空気を吸い込んでみた。ひんやりして、新鮮な空気だ。ロッジで暮らしていた頃登ったことのある北部の山の空気に似ている。
ここは外だ。外に違いない。だが、隊長ははっきりと言った。ここは洞窟だと。
アナは頭を振った。あまりに信じられない。これほど馬鹿げた大きさの洞窟なんて、聞いたこともない。どう考えても…差し渡し数マイルはある。アナはふたたび隊長の方を見た。彼は船首に立ち、進行方向を黙って見つめていた。進む船が水路を右に曲がったところで、彼の向こう側に橋が見えてきた。青くレースのような石造りの橋。それが洞窟の岩壁から岩壁へ渡されている。三本のとてつもなく高い柱に支えられ、接合部は女性の扇のような繊細さがあった。
その橋の下を抜けると水路はより広くなり、両側の崖はしだいに穏やかな丸みを帯びた丘の斜面へと変化し、灰色や黒だった岩は苔のような緑色へと様子を変えていた。その先は…湖だろうか…ずっと遠くの方、輝く水面に影となったいくつもの島が浮かんでいる様子が見て取れた。
溶岩流のような奇妙に突き出た岩が並んでいるなと思っていたらそれは建築物の群れで、それらはすべて天井がなかった。
アナは信じられない思いでその光景を見つめつづけ、ついに思い知った。
ここは地下なのだ。
この輝く水は、おそらく何か光を発するものが含まれているのだろう。
ボートが湖へと漕ぎ出し、アナはようやくこの大洞窟の全体像を見ることが出来た。
「なんという…」
その言葉を聞いた隊長は、なにかをアナの中に認めた様子で右手を指し示した。
「あれを見ろ。我々はあそこへ向かっている。見えるか?岬の向こうだ。もうすぐよく見えるはずだ」
そこにはなにか、柱のようなものが立っていた。灯台のようでもあり、モニュメントのようでもあり…その頂上が岬状の岩の塊から頭をのぞかせている。岬を回り込み、その全容が見えてくるに従ってアナは言葉を失った。その柱は思っていたよりもずっと遠く、そう、おそらく二マイルか三マイルは先に屹立していた。
「でも、あれは…」
「三百五十スパンの高さがある」
アナは輝く湖の中央に建つ、その巨大な円柱状のねじれた岩を見つめた。三百五十スパンですって?マイルに換算すると一マイル以上だ。しかし確かにあれはどう見ても人工物だ。まるで巨人が作ったとしか思えないが…アナは感動と恐怖を同時に感じていた。異星人の芸術を鑑賞している気分だった。
「あれはなんと呼ばれているの?」
「古くはエーグラと呼ばれていた」
隊長は答えた。
「だが今は、単に『島』と呼ばれている。その右奥に見えるのがシティだ」
「シティ?」
隊長は再び視線を前方に戻し、もう答えなかった。だが彼の言葉は明確で、聞き間違いではなかった。不気味な静寂の中ボートは進み、ただオールが水をかき分ける音だけが響いていた。

ヴェオヴィスはエネア卿の書斎の外の廊下でじっと待っていた。中では首脳たちが最後の会議を行っている。
召喚を受けたヴェオヴィスは、詳細を知らされないままエネア卿の車で連れてこられたのだった。何かが起こったのだ。急いでヴェオヴィスの意見を聞く必要のあるなにかが。
ヴェオヴィスはにやりと笑った。首脳たちのことは幼い頃からよく知っている。父とともに、公式非公式にかかわらず、さまざまな場で顔を合わせてきた。少食で、何か重要な決めごとの際にのみ決まりきった言葉を話す人たち…そんな彼ら同士の「会話」は、ほとんどが目配せや身振りだった。二百年もの長い付き合いで、お互いの考えは知りすぎるほど知っているのだ。一方、ヴェオヴィスは若手の代表であり、ドニの思考を活発に牽引する存在だ。ドニ文化の動きに精通した、彼らの言葉を借りれば「事情通」であった。
ヴェオヴィスはそれを知っており、かつ受け入れていた。実際、自身の役割は五元老と若手評議員たちの橋渡し役であり、たびたびぶつかり合う意見を調整し、解決方を導き出し、皆を満足させることだと考えていた。同じ階級の者の多くがそうであるように、ヴェオヴィスは争いが嫌いだった。争いとは変化を意味する。ヴェオヴィスは変化を嫌っていた。五元老はそれを昔からよく理解しており、難しい問題に決定を下す必要がある際、たびたび彼を呼んだ。
多分、今回もそうだろう。
ドアが緩やかに開き、ヴェオヴィスは立ち上がった。なんとエネア卿本人がそこに立っていた。室内の明かりを背に扉の枠で切り取られたその姿は一枚の絵画のようだ。
「ヴェオヴィス、来なさい」
「エネア卿」
ヴェオヴィスは心から敬意を表してお辞儀をした。
部屋に入ってからも、それぞれの元老にお辞儀をして回る。一番最後に向かったのは自分の父、ラケリだ。
室内には五元老しかいなかった。このことをヴェオヴィスは予想していた。この会合が行われる前に、他の者はすでに退室させられたようだ。
机の向こうの大きな椅子にエネアが着席する。ヴェオヴィスはわずかに足を開き、直立して言葉を待った。
「侵入者についてだ」
前置きなく、エネアが告げた。
「彼女の準備は出来ているようだ」
右側に座る元老が付け加えた。ネヒル卿、石工ギルドのグランドマスター。
「準備…ですか、マイロード?」
「そうだ」
他の元老たちに承認を得るように、ひとりひとりに視線を向けながら、エネアが続けた。
「我らの予想よりもはるかにな」
「どういうことでしょうか?」
「彼女はドニ語を話す」
答えたのは維持ギルド、リラ卿。
ヴェオヴィスは体を衝撃が通り抜けるのを感じた。
「申し訳ありませんが、もう一度おっしゃっていただけますか。リラ卿」
しかしリラはだまって見つめ返すだけだった。
「考えよ、ヴェオヴィス。その意味を」
だが、ヴェオヴィスは考えることが出来なかった。その発想そのものがあり得なかった。何の冗談だ?俺を試しているのだろうか?何故…何故、父はこのことを一言も教えてくれなかったのだ!
「私は…」
エネア卿はわずかに身を乗り出して続けた。
「言語ギルドグランドマスター、ジーランが今朝早く我々のもとを訪れ、報告を行った。それは誠に興味深い内容であった。もちろん、いくつかの進展があったことは知っていたが…その度合は驚くべきものだった。我々の客は完全に聴聞会に対する準備が出来ている」
ヴェオヴィスは顔をしかめた。
「そんなはずは…」
「ことは非常に単純だ」
柔らかい声で、ネヒル卿が割って入った。
「我々はなにをなすか決めなければならん。少女を評議会全員の前で広く発言させるか、または信頼できる何人かが証言を行うのを、少女は閉じた扉の向こうで聞くか」
「評議会首脳で決めるのですか?」
父であるラケリ卿が笑って言った。
「違う、ヴェオヴィス。我々、とはこの五人のことだ」
ヴェオヴィスは続けようとした言葉を飲み込んだ。彼らが自分に何をさせようとしているのか気づいたのだ。
エネア卿はヴェオヴィスの顔をまじまじと見つめて、うなずいた。
「そうだ、ヴェオヴィス。お前の意見が聞きたい。いずれにせよこれは非常に難しい問題だ。もちろん、少女は安全に広く発言してもらう必要があるが、その一方で彼女がどんな発言をするかは誰にもわからない。ドニの守り人として、我々はリスクを正しく見積もらねばならん」
ヴェオヴィスはうなずいた。
「提案してもよろしいでしょうか、マイロード」
「言ってみよ」
「聴聞会を二度に分けるというのはいかがでしょうか?まず五元老の皆様の前でのみ行い、その後二度目の…可能であれば、ですが。今までに自分自身が判断される場においてそのような機会が与えられた者がいますか?」
「それはつまり、最終的には許可されないかもしれない上で何かを約束しろということかね?」
「二度めの聴聞会は一度目の成功が前提です。これは保険です。もし何か間違った方向に進んでも…」
エネアは笑みを浮かべた。冬のように、凍えた笑みだった。
「素晴らしい。…ではヴェオヴィス、下がってよい。三日のうちに結果を報告せよ。問題がないようなら、一週間後に我々は少女とまみえよう」
ヴェオヴィスは深くお辞儀をした。
「お望みのままに、マイロード」
踵を返して退室するヴェオヴィスを、父であるラケリが呼び止めた。
「ヴェオヴィス」
「はい、父上」
「お前の友人、アトラスだが」
「彼が何か?」
「できればメンバーに引き抜いておけ。彼は若手のうちでも有能だ。彼がお前の隣にいることで、多くのことがスムーズに行くだろう」
ヴェオヴィスは微笑み、ふたたびお辞儀をした。
「そのようにいたします、父上」
そして互いに頷きを交わし、ヴェオヴィスは部屋を後にした。

皆が去った後もエネアは長い間執務机に向かったままだった。手元には開かれたスケッチブックがあり、木炭で描かれた自身の顔があった。
自分の顔をまじまじと眺めるのは久しぶりかもしれない。エネアは似顔絵を眺めながら、かつて慣れ親しんだ顔の特徴を削り落とした時間の流れや出来事に思いを馳せた。
エネアは生来、思慮深い男だった。そうではあったが、その思考は主にこの岩で囲まれた小さな社会の外に向けられていた。心の中でより大きな世界について考えることをやめたことは滅多になかった。あの少女が描いたこの絵がそれを思い出させた。
いくつもの希望と喪失、野心と失望、理想主義とこの長い歴史を守ることの重圧…それらが自分の肌に残した、痕とでも言うべきものをエネアは今見ることが出来た。エネアは自分の顔を一種の仮面で、長い年月とともに石で覆われてきたと考えていた。だが間違っていた。それらは全て、この青ざめた石のような肌に、タブレットのように刻まれてきたのだ。それを読むことを望む全ての者のために。
彼女が「普通」だったら…
その先を考えることをやめた。だがその想像は、この絵のように彼の心を深く乱した。
聴聞会に賛成した時は、他の人々同様、単純な、容易な問題だと考えていた。未開人を人々の前に引き出して、質問し、後は処分すれば…人道的に、牢獄の時代へ…それでいいと思っていた。しかし今、そんな考えは忘れてしまった。
少女はそんな単純な未開人ではなかったのだ。
エネアはスケッチブックを閉じ、弱々しくため息をついた。
「彼女が『普通』だったら…」

「ヴェオヴィス」
顔を上げたヴェオヴィスの顔はいつもの快活さがなく、疲れているように見えた。寝ていないのかもしれない。
「ああ、アトラス。よく来てくれた」
ヴェオヴィスは向かいの椅子に座るよう促した。ここは記述ギルドホールの巨大な多目的ルームだ。とても広い正方形の部屋で、おびただしい数の大きな背の高いアームチェアで埋まっている。ギルドマンたちはよくこの部屋でミーティングを行うのだが、まだ早朝のためか、数人の姿しか見られなかった。
ヴェオヴィスは少し笑って、アトラスの方を見た。
「昨晩、エネア卿の召喚を受けた」
「なんだって?」
ヴェオヴィスは声を落として続けた。
「俺にやってほしいことがあるそうだ」
「一体何を?」
「彼らは聴聞会を中止したがっている」
アトラスは身を乗り出した。
「だがエネア卿自身が、評議会全体の前で聴聞会行うと表明したじゃないか。いきなり中止になんてできないだろう!」
「そうだな。だから俺に、個々のメンバーへの説得を頼んだという訳だ」
「それが俺を呼んだ理由か?説得のために?」
「そうじゃないよ、アトラス。君は君の思う通りにすればいい。だが俺の父が、君と話をすべきだと言ったんだ。それが呼んだ理由さ」
「俺は君に従ったりしないぞ、ヴェオヴィス」
「父は君が俺の手助けをしてくれることを望んでいるんだ。君ならそうしてくれると」
「それで何と答えたんだ?」
「君と話してみる、と答えた。それだけだ」
アトラスは笑った。
「わかった。駆け引きはなしだ。俺の助けが必要か、ヴェオヴィス?」
ヴェオヴィスも微笑んだ。
「君さえよければ、歓迎だ」
「じゃあ全部話してくれ。詳しくな」

その夜アトラスはギルドホールの自室に戻らず、シティ上層北東、「時代公園」を見下ろすジャレン地区へ向かった。そこにはアトラスの生まれ育った家があるのだ。母はアトラスの顔を見るととても喜んでくれた。だが今回帰ってきた目的は父、カーリスに会うことだった。
母との抱擁を終えると、アトラスは二階へと続く階段へと目をやった。
「父さんは書斎?」
「ええ。なんだか忙しそうよ。朝までに報告書をまとめなきゃいけないんですって」
本棚に囲まれた大きな書斎へ入ると、カーリスは山のように積まれた書類の向こうで顔を上げ、微笑んだ。その顔には疲れが見える。
「おお、アトラス。調子はどうだ」
「ただいま、父さん。ちょっと話ができる?」
カーリスは書類の束にちょっと目をやり、ペンをスタンドに戻して椅子に深く腰掛けた。
「なんだ。大事な話か?」
アトラスは正面の椅子に座った。
「例の侵入者についてなんだ」
「うん?」
「今朝早く、僕はヴェオヴィスに会いに行ったんだ。ギルドホールに呼ばれてね。なんだか妙な様子で…僕は何があったか尋ねたんだ。彼は五元老の代理として、ある任務を言い渡されたらしい。そしてそれを手伝ってもらえないか、と」
「それでお前は手伝いを約束したのか?」
「うん」
「それで…なにか問題があるのか?」
「気が進まないんだ、父さん。どう自分が関わるのかもはっきりしないうちに返事をしてしまった」
「ふむ。お前らしくないな」
「うん…でもヴェオヴィスは友達だ。彼の頼みを断るのは難しい」
「なるほどな。だが、五元老がお前に与える『任務』について難しいと感じている本当のところは何なのだ?」
アトラスは父を見つめた。
「父さんは何も聞いていない?」
「私が何を聞いていると思っているんだ?」
「例の少女は、もう流暢にドニ語を話せるらしい」
カーリスは笑った。
「冗談はよせ、アトラス。噂では彼女はせいぜい自分の名前をかろうじて言えるくらいってことだったぞ」
「噂は間違いだったんだ」
カーリスは不意に真面目な様子になって言った。
「なるほど。それなら聴聞会はすぐ開かれそうだな」
「まさにそこなんだけど、五元老はもう聴聞会を開きたいと思っていないらしい…少なくとも全評議員の前では。彼らだけの密室で行おうと考えているんだ。それでヴェオヴィスと僕に、評議員の説得をさせようとしている」
カーリスは息子を見つめた。
「なるほど…この時点で、よく私を尋ねてくれた、アトラス。エネア卿は全評議員の前で、と約束した。そして約束は守られるべきだ。当然な」
カーリスは椅子から立ち上がり、机を回って歩いてきた。アトラスもまた立ち上がり、父と向かい合った。
「僕たちはどうすべきかな?」
「私がエネア卿に会いにいこう。この案件は最優先だ。彼に私が聞いた噂を伝え、それらはデマだという確認を得てこよう」
「ありがとう。でも僕のことは話に出さないでもらえるかな」
「もちろんだ」
カーリスはアトラスの手をしっかり握った。
「何も心配するな、アトラス。お前の難しい立場はよくわかっている。もしかしたらヴェオヴィスがお前が私に話をしたと考えて、そのことを咎めるかもしれんが、エネア卿の耳には入っていないだろうことを確認してこよう」
「今の所気づいてはいないと思うけど…」
カーリスは微笑んだ。
「推測と、事実として知るまでの間には暗く長いトンネルがある。騙そうと思う気持ちがあるわけではないことはよくわかっているさ、アトラス。だがこの話はヴェオヴィスと一緒にした方が良かったかもしれんな。彼にとっても、なによりお前自身にとっても」
「これが一番いいと思ったんだ」
「うむ。ありがとう、アトラス。お前は正しいことをしたよ」

使用人がドアをノックした時、エネアは既にベッドの中にいた。
「ジェダー、何事だ」
エネアよりひとつかふたつほど年下の老人が扉から顔をのぞかせた。
「グランドマスター・カーリスです、マイロード。遅い時間ということはわかっているが、お目通し願いたいと。最重要案件、とのことです」
エネアはため息をついてゆっくり起き上がった。
「頭をはっきりさせるからしばらく待ってくれるよう頼んでくれ。すぐに向かう」
「かしこまりました」
皺だらけの顔が引っ込むと、エネアは冷たい床に足を下ろした。
この地位について、しばらくは豪華さを楽しんだ時期もあったが、最近は身の回り全てを簡素にしている。
洗面所で顔を洗い、小さな布で拭う。執務用のマントをまとい、ボタンを留める。
「今行く!」
エネアはそう呼びかけると、片手で灰がかった白髪をなでつけ、小さな鏡で確認した。
「さて、マスター・カーリスのご用件はなにかな」
カーリスは書斎で待っていた。エネアが入室すると急いで立ち上がり、礼をした。
「申し訳ありません、エネア卿」
エネアは手を振った。
「よい。何事かね、カーリス?新しい洞窟の計画でもあったかな」
そうでないことは承知だった。カーリスはそんなことでエネアを叩き起こしたりはしない。実際のところ、用件はわかっていた。おそらく誰かが来るだろうと、エネアは半ば予期していたのだ。それがこんなに早くというのにはいささか驚いたが。
エネアが椅子に座るとカーリスは一歩進み出て、机の前に立った。
「いいえ、マイロード。新しい洞窟の計画はございません。それよりも、ここのところ耳にするある噂についてのお話です」
「噂?」
エネアはわざと無知を装い、鋭くカーリスを見つめ返した。
「噂について話すために私を起こしたのか、マスター・カーリス?」
「皆が心配しているのがこのような重大な件でなければ、卿を煩わせるつもりはありませんでした」
「重大な件とは?」
「聴聞会です」
カーリスは一瞬ためらって、続けた。
「噂はこうです。五元老は聴聞会を密室で行おうとしている。そうなのですか、マイロード?」
エネアははじめて微笑んだ。
「そのとおりだ」
カーリスは驚きのあまり立ち尽くし、瞬きした。
「…理由をお伺いできますか、マイロード」
エネアは椅子を勧めた。
「座りなさい、マスター・カーリス。説明しよう。我々がこの件をどう考えているか…それを君が理解することがきっと我々の助けになる」

書斎の扉が鋭くノックされた。アトラスは自分の机で、ギルドハウスを出る前に自分の仕事の遅れを取り戻そうとしていたところだったが、仕方なく立ち上がり扉を開いた。訪れたのはヴェオヴィスだった。アトラスの肩をかすめるようにあわただしく部屋に入ってくると、ベンチにどかっと腰を下ろした。その顔は暗く、怒りを抑えているようだった。
「聞いたか」
「聞いた?何をだ?」
「聴聞会のことだ。結局やるらしい。五元老は心変わりした。一週間後に開催だとさ」
「全評議会の前でか?」
ヴェオヴィスは頷いた。アトラスと目を合わさず、まっすぐ正面を見つめていた。つい先ほど行われた会議を反芻しているようだった。
「間違っている…エネア卿に言ったんだ。その判断は誤りだと。きっと後悔すると…だが頑なだった。『約束は約束だ』と。まあ、それについてもうどうのこうの言いはしない。だが、状況は変わった」
「少女に発言を許すことは危険だと考えるのか?」
ヴェオヴィスはアトラスを一瞥した。
「疑問の余地があるか?俺は確信している。少女は狡猾さ、生まれつきな。みるがいい、やつは俺たちの舌をも操っているじゃないか」
「それは…」
「俺には解る。俺が恐れているのは、同じように評議会すら操られるんじゃないかってことだ。やつは自分を調べるためにやって来たうちの何人かを既に丸め込んで、情報を聞き出している疑いがあるとのことだ。大胆にも!」
アトラスは向かい合って座った。
「続けてくれ」
「言語ギルドの一人は、やつの無邪気な演技にあてられて、うかつにもリーヘヴコーの存在をやつに漏らした。それを聞いたやつはリーヘヴコーの写本を見せるよう迫ったそうだ」
「それは許されないことだろう」
「その通りだ。それが理由で、ギルドマスター・ヒーミスは調査チームから外された」
「なぜ今まで知らせてくれなかったんだ」
「俺も今朝知ったんだ」
アトラスはため息をついて頭を振った。
「さぞ…失望しただろう」
ヴェオヴィスは顔を上げ、うなずいた。
「それで、どうするつもりだ?ヴェオヴィス」
「どうするだって?」
ヴェオヴィスはこれまで見せたことのない、辛辣な顔をしていた。
「できることはなにもない。完璧な息子を演じて、ただ口を噤んで眺めるだけさ」
「お父上がそうするように言ったのか?」
「なにも言いやしないさ。だが他にどう解釈できる?」
ヴェオヴィスはうなだれた。
「だがな、アトラス。彼らは必ず後悔することになる。必ずな。あの少女は狡猾だ」
「少女に会ったことが?」
「いや。だがその行動から解る。やつは野蛮で、道徳も持たず、狡猾でしかない。その言葉は毒だ。我々を望まない方向へ進ませる。俺が恐れているのは、それだ」
「じゃあ彼女の言葉への反論を用意しなければな」
ヴェオヴィスははっとしたようにアトラスを見て、微笑み頷いた。
「ああ、そうだ、もちろんだ。反論しなければ。嘘を暴くための真実を。やはりお前は素晴らしい、アトラス。絶望の中で、俺の支えだよ!」
ヴェオヴィスは立ち上がりアトラスを抱擁した。
「ここに来た時落ち込んでいた心が新しい希望で満たされたよ、アトラス。お前の言う通りだ。俺は正しい理由を告げる声にならなければな。闇を吹き飛ばす、激しく強く輝く光に!アトラス、友よ。俺と一緒に発言してくれるか?」
「ああ、真実を語ろう。俺の見たままの…今のところ約束できるのはそれだけだ」
「十分だ。真実を見せることを約束する。やつの見せかけの純真さに目を奪われるな。その仮面の下には企みがある。それを見て、話してくれ」
「わかった」
「よし。仕事を邪魔して悪かった…なあ、アトラス」
「どうした?」
「ありがとう。やはり君は一番の友達だよ」

シティ下層の狭い路地は人で溢れていた。大ギルドホールへ続く坂を進む行列を見物に来た人々だ。シティガードの小隊が見物人たちを押し分けて、八人のギルドマンに支えられている大きな籠から遠ざけていた。ギルドマンは全員メンテナーだ。籠の前後には長い旗竿を掲げる者が随伴していた。
カーテンで覆われた籠の中で、アナは椅子に座って群衆を眺めていた。何人かが叫んでいるが、まだドニ語を完璧にマスターしたわけではないアナの耳には奇妙な発音に聞こえた。だがそのうちの何人かは敵意を表していることはわかった。それは珍しい展示物というよりも、外国で囚われた異世界の獣が広場に引き出されて見世物になっている、というほうがしっくりきた。
アナは見物人の男、女、子どもたちを見回した。どの顔も同様に奇妙な面長で、この六ヶ月でようやく見慣れてきた特徴だった。実際、昨夜自分の顔を鏡で見たときには自分の顔がとても奇妙にすら思えたものだ。厚く肌の荒い鼻と口、重すぎる頬骨、彫りが深すぎる顔。皆は自分をそう見ているのだろうか。
ゲートを通り過ぎると群衆は全くいなくなった。富裕層の地区に入ったのだ。家の外に立っている市民たちはみな華やかに着飾っており、しかしその好奇心はむしろ下層の人々よりも激しいようだ。
路地が突然開けた。
百万フィートもあるだろうか、大理石でなめらかに覆われた舗装路が伸び、その曲がりくねった道の両側に建つ屋根なしの家は、下層のそれとはまったく別物だった。
その違いを見たアナは心の中で頷いた。
これがこの社会なのだ。貧しいものは服も家も均一的で、富めるものは…なにもかもが上質だった。昔、アナがまだ幼い頃に父親が話してくれたことがある。俺は文明のそういった暗い側面に幻滅したのだ、と。
今、アナはこの小さな帝国に真正面から向き合っている。恐ろしい気持ちが無いわけではない。だが独房で過ごした日々は、アナに十分な心の準備をさせた。彼らはアナをもっとひどい状況にすることができただろう。だがアナはまだ心折れず、後悔もせずに済んでいる。
後悔すべきことがあるとしたらなんだろう?地下で迷子になったことか?違う。父はいつも言っていた。
「自分自身を信じていりゃあ、周りがどう考えてても関係ない。良心に従え。そうすりゃ全てうまく行く」
そしてこの数ヶ月で最もはっきり聞こえた父の声が、アナを勇気づけた。
「臆するな、アナ。なによりも自分を信じろ」
アナはこの先起こることに怖気づくつもりはなかった。何を言われようがどう判断されようが、誇りを持って自分自身を保つ。それだけだ。
次のゲート…両側に警備のための塔を備えた巨大な石造りの門の手前に、ギルドの上位者たちによる一団が出迎えのために待ち構えていた。知らない顔ばかりだったが、一番前に立っている三人はよく知っていた。
「降りてきなさい、アナ」
エネア卿はそう言って籠に近づき、丁重にアナの手を取った。
「ここからは歩いてもらわなければならん」
エネアの助けによって籠を降り、グランドマスター・ジーランと部下のギルドマン、ジーメルの間に立つ。いざ自分の足で立たなければならなくなると、とたんに自信がなくなってきた。鼓動が早くなる。もうすぐそこに人々が集まっているのだ。
ゲートの向こうは急勾配の大通りで、広場へと続いていた。そこでアナは気づいた。周りを見回す。やはりそうだ。この広場は独房から何度も目にした場所だ。こんなに重要な場所だとは思っていなかった…今の今までは。
いま正面に見えるギルドハウスは前面に巨大な玄武岩の六角柱が並んだ巨大な多階層建築で、大洞窟の天井に迫るほどの高さだった。わざわざ尋ねるまでもない。掲げられている様々なギルドのマークが入った盾が、その建物がなんであるかを示していた。広場から周りに伸びる路地はいずれもギルドマンたちで溢れており、若者から老人まで全員が、様々な色のマントを羽織っていた。ワイン色、黄色、ターコイズ、クリムゾン、エメラルドグリーン、黒、クリーム色、ロイヤル・ブルー…それぞれのギルドを表す色だ。
側に立ったエネア卿は普段よりもさらに無表情であるように見えた…が、アナにはわかっている。彼は優しくはないが、公平だ。アナの助けになる人がいるとすれば、それはエネア卿だった。マスター・ジーランはアナに好意を抱いていないことは知っている。マスター・ジーメルは、アナを永遠に幽閉してしまうべきという考えだ。ほとんどそれに等しい言葉を吐かれたことがある。マスター・ヒーミスだけは優しかった。だが彼は任を解かれた。
エネア卿が手を振り、アナを中心にした一団は歩き出した。
今回は少なくとも、枷はつけられないみたいね。
でもなぜ枷をつけたのだろう?私が何をするというのだろうか。逃げる?まさか。逃げる場所などどこにもありはしない。羊の囲いに紛れ込んだ山羊みたいに、どうしたって私は目立つ。
ホールに続く大理石の階段に差し掛かったとき、ジーランが顔を寄せて囁いた。
「直接質問に答えるように言われない限り、絶対に口を開くんじゃないぞ。わかったな、アーナ?もし勝手に口を聞いたら、エネア卿はお前にさるぐつわを着けさせるだろう」
アナはびっくりして振り返った。だがその老いた男はただ頷くだけだった。
「勝手に喋らないこと、これが規則だ」ジーランは続けたが、階段を登り始めるとほとんど聞こえなくなってしまった。
「いいつけをしっかり守り、聞かれたことにのみ答えるんだ。いいな?」
アナは頷いたが、同時になんだかすべてがどうでもよくなった。ずっと感じている、胃が痛くなるような緊張がどんどんアナを不安にさせたが、アナはそれに抗った。膝を屈し、頭を下げてしまいそうになるその気持ちに。
喉が渇く。手が震える。
ふざけるな。背を伸ばし、拳を握る。震えを止める。結局のところこれはただの聴聞会だ。裁判じゃない。言うとおりにしてやろうじゃないか。どんな質問にもはっきり答えてやろう。私の言うことが真実だと受け止めてくれるかもしれない。そもそもなぜ私が嘘をつく必要があるというのだ?
周りの建物よりもひときわ巨大な大ホールの内部は、それぞれの壁に向かって階段状の議員席が取り囲む造りだ。その頂上には巨大な大理石の台座があり、大きな玄武岩の玉座が並んでいた。それぞれの椅子に座る、百名をゆうに超えるマント姿のギルドマンたちは皆、評議員の証である太い金色の鎖を首から下げていた。

The Book of Ti'ana © 1996 Cyan, Inc.

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