Book of Ti’ana 第3章─断層

第三章 | 断層

その日の終わりに、評議会の首脳たち…五元老と十八のグランドマスターたちが、何をすべきか決める特別会議を行った。
会議が行われている間、噂はドニの都市じゅうを駆け抜けた。大多数の者は「侵入者」の性質に対しての関心。その生きものから、メンテナーがどんな様子を観察するかを予想した。ほとんどの者がその形は人のようであることを認めたものの、中には熊と猿の合いの子であると主張する者もいた。
こういった「ニュース」はどれもこれも根拠のないものであることはアトラスもわかっており、確実な事実だけを拾い上げるようにしていたが、あまりにもでたらめな噂が多すぎるので、ヴェオヴィスに直接尋ねてみることにした。夕刻、地底湖の明かりが暗くなるころ、アトラスは部屋を出て上層街の路地を抜け、記述者ライターズギルドのホールを目指していた。
ヴェオヴィスか、他の誰かでもいい。何が起こっているのか知っている元老かマスターが見つかるかも知れない。
古代から存在する記述者ギルドホールの門にたどり着いたアトラスは、執事がヴェオヴィスにアトラスの訪問を伝えに向かっている間、正門前の小さな中庭で待った。
数分後、アトラスは戻ってきた執事に、ホールの中へと案内された。高い柱に挟まれて伸びるモザイク画の道によって二等分されているここはリ・ネーレフのホールと呼ばれており、最古の五大ホールのうち、最初に建てられたものだ。その他の古代のホール同様、記述者ギルドのホールは独立した建物ではなくさまざまな建物や部屋の複合体であり、その一部は大洞窟の地上面から遥かに深い位置まで掘られて作られている。
奥に進むと細く長い階段が見えてきた。その石段はすり減り、あまりにも長い時間…ドニの六千年の歴史の中で、数えきれないほどの人々が通ったのだろう…まるでワックスのように溶けた形をしていた。
ここに二千人ものギルドマンが暮らしている。食事をし、寝起きしている。ここで教育を受け、日々のギルドの仕事を遂行している。そして…幾つもの本の部屋と、巨大な書庫がある。このような場所は、ここを除いてドニのどこにもない。
歴史ある廊下を歩きながら、アトラスは記述者ギルドの後ろに横たわる歴史の重みを感じていた。記述者は自ら特別な権利を主張したことなどない。だが明らかに評議会では他のギルドよりも大きな発言権を持っていた。それは十八のギルドの中で最も格式が高いという自負であり、メンバーたちもそのように振る舞っていた。
将来の夢は記述者。そう考えるドニの少年たちは多い。
執事の歩みが遅くなり、ある扉の前で止まった。彼はアトラスを振り返り、お辞儀をして言った。
「こちらのお部屋です」
執事がノックすると、中からヴェオヴィスの声が聞こえた。
「入りたまえ!」
執事は扉を少し開け、中に呼びかけた。
「お邪魔して申し訳ありません、ギルドマスター。測量ギルドより、マスター・アトラスがお見えです」
「お通ししろ」
執事が開けたドアの中へ、アトラスは進んだ。
ヴェオヴィスは広く天井の低い書斎の奥で椅子に座っていた。あらゆる壁は本に埋め尽くされており、彼の父、ラケリ卿の肖像が巨大なオーク天板の机の後ろに飾られている。背の高い二つの椅子にはそれぞれ男が座っていた。一人は歳をとっており、一人は若い。アトラスは、年配の男が誰か思い出した。リアニスだ。ヴェオヴィスの家庭教師であり相談役。そして若い方はスァルニルだった。ヴェオヴィスの友人で、メンテナー。
「やあ、アトラス」
ヴェオヴィスは立ち上がり、顔いっぱいに笑顔を浮かべた。
「よく来てくれた」
アトラスの後ろで静かに扉が閉まる音が聞こえた。
「突然の訪問を許してくれ、ヴェオヴィス。君なら何か知っているんじゃないかと思って」
ヴェオヴィスは部屋を横切ってアトラスに近づき、手を握った。そして一歩下がり、椅子に座るよう促した。
「ちょうどこの瞬間に現れるなんてな。スァルニルもたった今来たところなんだ。評議会首脳の審議が終わったらしい。数時間もすればなにかしらの発表があるだろう」
「それ以上の情報はないのかい?」
椅子に座ったヴェオヴィスの顔からは笑顔が消えていた。
「評議会の前に、特別聴聞会が行われるだろうということだ」
「聴聞会?どんな類の?」
ヴェオヴィスは肩をすくめた。
「俺がわかっていることは、よそ者が尋問されるということ、そして評議員として我々はそれに臨席できるということだけだ。おそらく地表の状況についての質問がなされるのだろう」
「彼はドニ語を話すのか?」
「いや、全くだ。それと、彼じゃない。よそ者は女だ」
アトラスは驚いて目をしばたたいた。
「女?」
「少女さ。まだ若い…やっと幼児から抜け出たくらいの、という感じだ」
アトラスは眉をひそめて首を振った。まだほんの少女が?一人で地表からここまで?まったく信じがたい話だ。
「だがドニ語を話せないなら、どうやって尋問するんだ?」
「俺の知ったこっちゃないさ」
ヴェオヴィスの返事には僅かな皮肉が含まれていた。
「だが彼女は言語ギルドに引き渡されるそうだ。奴らは女が発する奇妙な音を調べようとしてる。もっとも、空腹時以外にも鳴くのかどうか怪しいものだがな」
「君はそう思うのか」
「なんだって、アトラス。まったくもってそう思ってるよ。全身毛に覆われた、比較的大型の骨格動物だとね」
「毛に?」
ヴェオヴィスは頷いた。
「まあそれはただの推測だが、しかし十分予想されると思わないか?なんであれ、環境から体を保護するものは必要だろう?」
「それはそうだが」
「それに、そこに魅力を感じる習性をもつ動物もいるらしいじゃないか」
笑いが起こったが、アトラスは黙っていた。「彼女」がどんな種族であれ、一体どんな事情が彼女にトンネルを下ってくることを強いたのだろう。そうでなくとも、一体誰に予想できただろう。
「彼女に会うことは出来ないかな」
「どうだろうな」
ヴェオヴィスは続けた。
「我々のような者が聴聞会より前に彼女に面会することは難しそうだ。スァルニルによれば、首脳陣の半数は彼女をまっすぐ牢獄の時代へ送り、この事態を終わりにするべきだと考えているらしい。ただ、エネア卿が個人的に、そうならないように仲裁しているということだ」
「だが、ただの少女じゃないか」
「アトラスは優しいな」
スァルニルが口を挟んだ。
「まったくお優しい。少女、確かに少女かもしれん。だが彼女はドニ人ではない。我々と同じような知性や感性を持っているとどうして言える。ただの少女かどうか、君にどうして分かる?彼女が、その稀な存在が、ドニをこんな騒ぎに陥らせているんだ。今や巷はこの話でもちきりで、この問題が片付かないかぎり他の話はすべてストップだ。まったく許容できない。彼女の訪問はドニにとって悪い出来事だ。市民に混乱をもたらすだけだ」
スァルニルの激しい言い方がアトラスには不思議に思えた。
「スァルニル、本当にそう思っているのか?」
「スァルニルは正しいよ、アトラス」
ヴェオヴィスが静かに言った。
「我々は冗談めいて話しているが、実際この件は深刻だ。そして俺の意見もやはり、彼女をどこかへやってしまうことだ。社会に影響を与えないような場所に」
アトラスはため息をついた。
「君の意見はわかった。確かにこの件は人々に混乱をもたらす。だが地表の状況を知る機会を自ら閉ざすのは、大きな損失じゃないだろうか?」
「居住可能な環境であるということはわかった。それでは不十分か?」
アトラスはうつむいた。この件で彼らに譲歩したくはなかった。
「まあ落ち着けよ、アトラス。いずれにせよこの件は俺たちがどうこうできる話じゃないだろう?聴聞会を開いてその後どうするか決定するというのは、もう首脳陣が決めたことだ。俺たちは言語ギルドの奴らが─いい奴らさ─例の生き物との意思の疎通に失敗しないことを祈ろうじゃないか。」
ヴェオヴィスの顔にはからかうような笑みが浮かんでいたが、それはゆっくりと消えていった。
「これは厄介な問題になるぞ、アトラス。絶対に。間違いなく厄介な問題に」

ギルドマスター・ヒーミスは個室の扉の鍵を閉めると、「生徒」のほうを振り向いた。彼女は後ろの狭い机に座り、黙って緊張している様子だ。彼らが与えた明るい青のローブを着た彼女は、囚人というよりは若い従者のように見えた。
「体調はどうですか、アーナ?」
「いいです、マスター・ヒーミス」
彼女は答えた。まだ若干発音が怪しいものの、ずいぶんましになった。
「Thoe kenen, Nava」(ご機嫌はいかがですか、マスター?)
ヒーミスは満足し、微笑んだ。
彼ら言語ギルドは、彼女の言語の単純な翻訳に取り掛かっていた。毎日、周りの物や単純な動作をドニ語と照らし合わせようとしたのだが、驚くべきことに、彼女は逆に自ら物を指し示し、身振りを交えてそれらの名称を伝え始めたのだ。その頭の回転の速さに、彼らはみな驚かされた。八週が経つころには、彼女は基本的なドニ語のフレーズを話せるようになっていた。正直、それはまだまだ赤ん坊のようなものだったが、彼女がやって来た場所を考えると驚くべきことであった。
十二週となる現在では、ほとんど流暢に話せるようになっていた。彼女は日に日に語彙を増やし、新しい知識を要求してきた。
「今日はあなただけですか?マスター・ヒーミス」
ヒーミスは向き合って座った。
「後ほどグランドマスター・ジーランがお越しになるよ、アーナ。だがそれまでは君と私だけだ。…じゃあ、今日は何をしようかな?」
彼にとってはまだ奇妙な邪悪さを感じてしまう、アナの黒い瞳が見つめ返してきた。
「先日話していた本…Rehevkor(リーヘヴコー)でしたっけ。それが見たいです」
その質問にヒーミスはひやりとした。彼は彼女に、ドニ語の辞書について語るつもりはなかった。ドニのやり方についてあまり多くを伝えることはできない。だが彼女はヒーミスの警戒を思わず解いてしまうような、良い生徒だった。
「それは難しいね、アーナ。その手続には評議会の認可が必要なんだ」
「認可?」
ヒーミスはうつむいて苦笑いした。
「いや、ええと、認可というか…うーん、君にリーヘヴコーというものがあると知らせてしまったのは私のミスだ。口が滑った。もし他のマスターがこれを知ったら…」
「まずいことになるのですか?」
ヒーミスは頷いた。アナは真剣に見つめている。
「そうですか…私はもう何も言いません、マスター・ヒーミス」
「ありがとう、アーナ」
「いいえ、あなたは私にとても優しくしてくれましたから」
ヒーミスはふたたび頷いたものの、何と言っていいかわからず黙り込んでしまった。そんな空気を振り払うように、アナは言った。
「一つ質問してもいいですか?マスター・ヒーミス」
「私に答えられることなら」
「私という存在をどうお考えですか?他のマスターたちも含めて、という意味で。本当は私のことをどう思っているんでしょう?」
それは予想外で、変わった質問だった。彼は彼女のことを面倒な存在だと考えたことはなかった。
「正直に答えましょう。彼らの多くはあなたを始めてみた時、にっこり笑う原始人として見ていました」
ヒーミスはアナの反応を窺った。アナはその意味を理解するように考え込んでいるように見えた。
「ではあなたは?マスター・ヒーミス。あなたはどうお考えです?」
ヒーミスはアナの目を見ることが出来なかった。それでも、彼女の真摯さの前に嘘をつくことは出来なかった。
「私も同じ考えだった」
しばらく沈黙が流れた。
「ありがとうございます、マスター・ヒーミス」
「…だが、今は違う」
「ええ」
「もし君がよければ、私は…聴聞会で君の弁護をしよう」
アナは微笑んだ。
「マスター・ヒーミス、やっぱりあなたはとても優しくて、信頼できる人です。でもその時が来たら、やはり私のことは私が話さなくちゃ。私が原始人なんかじゃないということを…そうでしょう?」
ヒーミスは彼女の態度に感銘をうけて頷いた。その強さの根底は、彼女のこれまでの人生を物語っているようだった。
「頼んでみるよ」
ヒーミスは静かに言った。
「頼む?」
なんのことかわからず、アナはヒーミスを見つめた。
「リーヘヴコーの件を」
「でも…」
「気にしないで」
ヒーミスは、彼女の考えに比べれば、そんなことは些細なことに過ぎないと思った。
「どちらにせよ、我々は君を何の準備も出来ていない状態で評議会へ向かわせる訳にはいかないからね、アーナ?」

アナは部屋の窓の前に立ち、外に広がる大洞窟を眺めていた。
今いるこの場所はアーラットと呼ばれているらしい。陰鬱とした風景は、アナの心を沈ませるばかりだった。鋼鉄製の窓枠は四フィートの厚みがあり、見える景色も岩、岩、そして岩ばかりで、それ以外といえば小さな赤錆色の池が、この鉄灰色の風景の中では目立っており、唯一目を引くものだった。
今日、マスター・ヒーミスは優しく接してくれた。彼は友人と呼べるかもしれないが、彼は大勢のうちのたった一人に過ぎない。彼がどれだけ親切であるとしても、この奇妙な薄明かりの世界においてアナはひとりぼっちで、囚人のままだった。一日が三十時間の長さをもち、季節が移ろうことのないこの世界で。
アナはため息をついた。珍しく意気消沈していた。出来る限り言葉を学び、なにか役に立つものは無いかを探し続けてきた。その作業は楽しくすらあった…だが未だにここがどこで、どんな人々なのかわからないままだ。
振り向いて、扉へ向かう。ここでは全てが石で出来ている。扉もそうだ。ベッドは石の板だし、岩壁を掘って造られている。小さなシェルフテーブルだって、石から切り出されている。ベッドには薄いブランケットが四角に畳まれて置かれている。そして枕。テーブルの上には水差しと、椀が一つ。
アナは石の寝床に腰をおろして膝をかかえた。しばらくそのままぼんやりと床を眺めていたが、はっと顔を上げた。
なんの音も予告もなく、いつのまにか扉が開いている。そして一人の老人がそこに立っていた。背が高く、威厳が有り、ワインレッドの模様が入った黒く長いマントに身を包んでいる。その模様は、アナを捕縛した警備員が着ていた服にも入っていたものだ。
その両眼は他の人々同様に薄い青で、その顔もまた他の人々同様骨ばって彫りが深く、繊細な磁器で出来ているようだった。灰白色の長い髪が、これまた他の人々同様、きちんと額の高い位置で後ろになでつけられていた。
老人。これまでに出会った誰よりも年老いている。薄い唇、青ざめた冷たい目からは、数百年の積み重ねを読み取ることができた。
彼が口を開くのを待ち構えていたが、彼はただ見つめるだけで、しかももう十分とでも言うように視線は部屋の中へと移った。彼の後ろの廊下にはマスター・ヒーミスと警備員が一人立っているのがちらりと見える。彼が一歩進み出るのと同じくしてアナも立ち上がり、言葉を探した。
「すみません…あなたを描いてもいいですか」
老人は少し驚いたように振り返った。
「スケッチブックが…ナップサックに入っていたんです。木炭と一緒に。もし返してもらえたら、時間を潰すのに役立つんですが」
老人はわずかに目を細め、踵を返すと部屋から出ていった。扉が静かに閉じる。
アナは再び座り、さっきよりも沈んだ気分になった。老人の顔からは無感情な冷たさしか読み取れず、その目から感じ取れたのは、アナの運命が閉ざされたということだった。
「で、どうするの?」
アナは頭上の誰かに聞かせるようにつぶやいた。今はもうあまり恐怖を感じていない。アナの思考は落ち着きをとりもどしつつあった。そしてあの老人の顔を思い出した。
あの驚いた顔、細めた目…一瞬彼と通じたものは一体何だったのだろう。
「あの」
アナは顔を上げ、驚きのあまり返事をするのに時間がかかった。
声がするまでその女性の存在に全く気づかなかったのだ。
「こちらを」
女性はそう言って部屋を横切り、テーブルに盆を置いた。温かそうなスープと焼き立てのパンの香りが漂い、アナはつばを飲み込んだ。
女性が後ろに下がると同時にアナは立ち上がり、これまでの質素な食事との違いに驚いた。盆は食べ物でいっぱいだった。ルビー色の液体が入ったタンブラーに、ミルクもある。そしてパンなど。
アナは女性にお礼を述べようとして振り返ったが、女性は既にいなかった。入り口には無表情の警備員が立っており、何かをアナに差し出している。それはスケッチブックと木炭だった。
呆然としてそれを受け取り、感謝を込めて頷いた。これまで百回以上、なにかを尋ねたり頼んだりしても、一切聞いてもらえなかったのだ。
扉が閉められる。
アナは受け取ったものを置き、盆を膝に移して食べ始めた。
彼は聞き届けてくれた。でも、これは一体どういう意味なのだろう?
どんな囚人もある程度経ったものは多少自由が許されるようになるのだろうか?そして今後はこの寒々しい石牢で一生を過ごすことが決まったというメッセージ?
もしそうなら、耐えられるだろうか?
少なくともスケッチブックは手にいれた。これまで六ヶ月の間に考えたことや見たものを書き記すことができる。そしてマスター・ヒーミスの授業で、あの奇妙で楽しい言葉たちに取り組むことができる。
そこでアナの動きは止まった。口の中の食べ物を噛むことも忘れて…あの顔だ。あの老人の顔。もしそれを描いたら、あの老人が何者で、何を求めているのかを理解する手がかりになるかもしれない。母がかつて言っていた。男の顔つきには秘密が隠れていると。
石のような顔だった。その表面を削り取ることができたら、その下には何が隠されているのだろうか。
アナはテーブルに盆を戻してあくびをした。突然どっと疲れが襲ってきた。スケッチはひと眠りしてからにしよう。
アナは石床に見を横たえて毛布を被り、目を閉じた。そしていくらも経たないうちに眠りに落ちていた。

部隊長の男は、感銘を受けたようにしばらくじっとスケッチを眺めていた。そこには老人の顔が描かれている。男には、その絵は完璧に特徴を捉えているように思えた。そしてスケッチブックを閉じると振り返り、開いた扉の方へ進むようにアナを促した。
「来い。その時が来た」
アナは木炭をポケットに入れると、男に向き直った。
「どこへ連れて行かれるのかしら?」
男は答えず、ただ扉を指し示した。
廊下へ出るとすぐに警備隊に囲まれた。正面に二人、後ろに二人。ただ今回は手が縛られていないのが救いだった。
隊長が号令をかけると彼らはすみやかに行進を始め、アナはペースを合わせるために早足になる必要があった。
固い岩盤に穿たれた長い長い階段を下り、巨大な石扉の玄関を抜けると、大きな一枚岩で出来た広場となっていた。アナが囚われていた石の洞窟は、さらに巨大な洞窟の一部に過ぎなかったという事実に、アナはただ驚くばかりだった。
一行の歩みがわずかに遅くなった。広場はその三方が垂直に裂け目へと落ち込んでおり、鎖の橋が遙かむこうの洞窟の壁面に口をあけている円形のアーチ付きの入り口へと架かっている。橋の下、裂け目の底には黒い脚をした漁船のような巨大な機械がうずくまっているのが見えた。機械…そう、地上近くで目にしたあの機械とよく似ている。それらはずっと下の方で、何かを建設している様子だった。いくつもの噴煙口やがれきが積み重なり、まるで巨人が積み木をしているかのようだ。
アナは高低差を怖がりはしなかったが、仮に足を踏み外しても、きっとこの警備隊は気にしないだろうな、と思った。彼らは規則正しくきびきびと歩き、アナの歩みが遅くなるとたちどころに小突いてきた。
対岸のアーチの模様が識別できるほど近づいてくると、アーチの下はただの岩の壁だということがわかった。磨かれた黒い大理石だろうか?アナはこの行進が一旦そこで停止するだろうと思っていたが、隊長の歩みは止まらない。まるでそのまま岩の中へ入っていくかのように。
アーチの真下に到着すると、隊長は突然右に進路を変えた。岩壁の暗がりの中に、どうやら下への階段が伸びているようだ。階段を底まで降りると扉があった。隊長が扉の鍵を開いている間、アナは彼に質問しようとした。
どこへ連れて行こうとしているのか。
向かう先で何が起こるのか。
しかし隊長はまるで機械のように無表情で、全く取り付く島がなさそうに見えた。指示に従い、効率的に、静かにアナを輸送するだけの機械。そして彼の部下たちも完全に彼と同じように、その顔には一切の感情がなかった。
アナは理解した。彼らは私のことが嫌いなのだ。言葉を交わしたいなどとは露ほども望んでいないのだ。
扉が開いた。小さなオイルランプが一定間隔で並ぶジグザグに折れ曲がった岩壁の通路を抜けると、一行は再び「外」に出た。さっきとは別な洞窟のようだが、こちらも広大な空間だ。
アナは周囲を見回した。右手は岩の絶壁で、先の方は霞んで見えない。左手はアナのすぐ足元から百ヤード以上先まで、渦く水が急勾配の裂け目の中を流れていた。こちらの洞窟は先程までの洞窟よりも明るいようだ。しばらくアナはそれが何故なのかわからなかったが、原因を知って驚いた。水だ。水が発光しているのだ。あちらでも、こちらでも。
むき出しの岩の斜面を下ると、その先には水面に突き出るような形で岩の桟橋があり、黒く長い一艘の船が係留してあった。じっと席に座っている四人の漕手らしき人は皆ワイン色のマントをまとっている。船尾には同じワイン色の旗が架かっており、その中央には金色の奇妙で複雑なシンボルが描かれていた。アナは船によじ登りながらその複雑さをしげしげと眺めた。
「ここは一体どこなの?」
振り向いた隊長の目はやはり冷たかった。どうせ答えてくれないだろうと思っていたが、意外にも彼は答えた。
「ここはドニだ。その主洞窟だ」
「あら」
返事したことには驚いたが、結局よくわからないままだ。ダーニー?そんなふうに聞こえたが、ダーニーってどこ?はるか地下深く?いや、ありえない。人は地下深くで生きては行けない。いや、それとも…彼らは生きてきたというの?本気で?アナはこの六ヶ月の間、自分が何を見続けてきたか思い出した。岩。岩だけだ。
係留ロープが外され、漕手たちがボートを離岸させると、彼らの一糸乱れぬ動きに合わせて船は素晴らしいスピードで水路を進み始めた。
アナは振り向いて、上を見上げた。巨大な岩の壁が巨大なドームを形作るように上へ伸びている。その壁は上へ、上へ、遙かに上へと続いていてその終わりは暗くなっていてよくわからない。
空気を吸い込んでみた。ひんやりして、新鮮な空気だ。ロッジで暮らしていた頃登ったことのある北部の山の空気に似ている。
ここは外だ。外に違いない。だが、隊長ははっきりと言った。ここは洞窟だと。
アナは頭を振った。あまりに信じられない。これほど馬鹿げた大きさの洞窟なんて、聞いたこともない。どう考えても…差し渡し数マイルはある。アナはふたたび隊長の方を見た。彼は船首に立ち、進行方向を黙って見つめていた。進む船が水路を右に曲がったところで、彼の向こう側に橋が見えてきた。青くレースのような石造りの橋。それが洞窟の岩壁から岩壁へ渡されている。三本のとてつもなく高い柱に支えられ、接合部は女性の扇のような繊細さがあった。
その橋の下を抜けると水路はより広くなり、両側の崖はしだいに穏やかな丸みを帯びた丘の斜面へと変化し、灰色や黒だった岩は苔のような緑色へと様子を変えていた。その先は…湖だろうか…ずっと遠くの方、輝く水面に影となったいくつもの島が浮かんでいる様子が見て取れた。
溶岩流のような奇妙に突き出た岩が並んでいるなと思っていたらそれは建築物の群れで、それらはすべて天井がなかった。
アナは信じられない思いでその光景を見つめつづけ、ついに思い知った。
ここは地下なのだ。
この輝く水は、おそらく何か光を発するものが含まれているのだろう。
ボートが湖へと漕ぎ出し、アナはようやくこの大洞窟の全体像を見ることが出来た。
「なんという…」
その言葉を聞いた隊長は、なにかをアナの中に認めた様子で右手を指し示した。
「あれを見ろ。我々はあそこへ向かっている。見えるか?岬の向こうだ。もうすぐよく見えるはずだ」
そこにはなにか、柱のようなものが立っていた。灯台のようでもあり、モニュメントのようでもあり…その頂上が岬状の岩の塊から頭をのぞかせている。岬を回り込み、その全容が見えてくるに従ってアナは言葉を失った。その柱は思っていたよりもずっと遠く、そう、おそらく二マイルか三マイルは先に屹立していた。
「でも、あれは…」
「三百五十スパンの高さがある」
アナは輝く湖の中央に建つ、その巨大な円柱状のねじれた岩を見つめた。三百五十スパンですって?マイルに換算すると一マイル以上だ。しかし確かにあれはどう見ても人工物だ。まるで巨人が作ったとしか思えないが…アナは感動と恐怖を同時に感じていた。異星人の芸術を鑑賞している気分だった。
「あれはなんと呼ばれているの?」
「古くはエーグラと呼ばれていた」
隊長は答えた。
「だが今は、単に『島』と呼ばれている。その右奥に見えるのがシティだ」
「シティ?」
隊長は再び視線を前方に戻し、もう答えなかった。だが彼の言葉は明確で、聞き間違いではなかった。不気味な静寂の中ボートは進み、ただオールが水をかき分ける音だけが響いていた。

ヴェオヴィスはエネア卿の書斎の外の廊下でじっと待っていた。中では首脳たちが最後の会議を行っている。
召喚を受けたヴェオヴィスは、詳細を知らされないままエネア卿の車で連れてこられたのだった。何かが起こったのだ。急いでヴェオヴィスの意見を聞く必要のあるなにかが。
ヴェオヴィスはにやりと笑った。首脳たちのことは幼い頃からよく知っている。父とともに、公式非公式にかかわらず、さまざまな場で顔を合わせてきた。少食で、何か重要な決めごとの際にのみ決まりきった言葉を話す人たち…そんな彼ら同士の「会話」は、ほとんどが目配せや身振りだった。二百年もの長い付き合いで、お互いの考えは知りすぎるほど知っているのだ。一方、ヴェオヴィスは若手の代表であり、ドニの思考を活発に牽引する存在だ。ドニ文化の動きに精通した、彼らの言葉を借りれば「事情通」であった。
ヴェオヴィスはそれを知っており、かつ受け入れていた。実際、自身の役割は五元老と若手評議員たちの橋渡し役であり、たびたびぶつかり合う意見を調整し、解決方を導き出し、皆を満足させることだと考えていた。同じ階級の者の多くがそうであるように、ヴェオヴィスは争いが嫌いだった。争いとは変化を意味する。ヴェオヴィスは変化を嫌っていた。五元老はそれを昔からよく理解しており、難しい問題に決定を下す必要がある際、たびたび彼を呼んだ。
多分、今回もそうだろう。
ドアが緩やかに開き、ヴェオヴィスは立ち上がった。なんとエネア卿本人がそこに立っていた。室内の明かりを背に扉の枠で切り取られたその姿は一枚の絵画のようだ。
「ヴェオヴィス、来なさい」
「エネア卿」
ヴェオヴィスは心から敬意を表してお辞儀をした。
部屋に入ってからも、それぞれの元老にお辞儀をして回る。一番最後に向かったのは自分の父、ラケリだ。
室内には五元老しかいなかった。このことをヴェオヴィスは予想していた。この会合が行われる前に、他の者はすでに退室させられたようだ。
机の向こうの大きな椅子にエネアが着席する。ヴェオヴィスはわずかに足を開き、直立して言葉を待った。
「侵入者についてだ」
前置きなく、エネアが告げた。
「彼女の準備は出来ているようだ」
右側に座る元老が付け加えた。ネヒル卿、石工ギルドのグランドマスター。
「準備…ですか、マイロード?」
「そうだ」
他の元老たちに承認を得るように、ひとりひとりに視線を向けながら、エネアが続けた。
「我らの予想よりもはるかにな」
「どういうことでしょうか?」
「彼女はドニ語を話す」
答えたのは維持ギルド、リラ卿。
ヴェオヴィスは体を衝撃が通り抜けるのを感じた。
「申し訳ありませんが、もう一度おっしゃっていただけますか。リラ卿」
しかしリラはだまって見つめ返すだけだった。
「考えよ、ヴェオヴィス。その意味を」
だが、ヴェオヴィスは考えることが出来なかった。その発想そのものがあり得なかった。何の冗談だ?俺を試しているのだろうか?何故…何故、父はこのことを一言も教えてくれなかったのだ!
「私は…」
エネア卿はわずかに身を乗り出して続けた。
「言語ギルドグランドマスター、ジーランが今朝早く我々のもとを訪れ、報告を行った。それは誠に興味深い内容であった。もちろん、いくつかの進展があったことは知っていたが…その度合は驚くべきものだった。我々の客は完全に聴聞会に対する準備が出来ている」
ヴェオヴィスは顔をしかめた。
「そんなはずは…」
「ことは非常に単純だ」
柔らかい声で、ネヒル卿が割って入った。
「我々はなにをなすか決めなければならん。少女を評議会全員の前で広く発言させるか、または信頼できる何人かが証言を行うのを、少女は閉じた扉の向こうで聞くか」
「評議会首脳で決めるのですか?」
父であるラケリ卿が笑って言った。
「違う、ヴェオヴィス。我々、とはこの五人のことだ」
ヴェオヴィスは続けようとした言葉を飲み込んだ。彼らが自分に何をさせようとしているのか気づいたのだ。
エネア卿はヴェオヴィスの顔をまじまじと見つめて、うなずいた。
「そうだ、ヴェオヴィス。お前の意見が聞きたい。いずれにせよこれは非常に難しい問題だ。もちろん、少女は安全に広く発言してもらう必要があるが、その一方で彼女がどんな発言をするかは誰にもわからない。ドニの守り人として、我々はリスクを正しく見積もらねばならん」
ヴェオヴィスはうなずいた。
「提案してもよろしいでしょうか、マイロード」
「言ってみよ」
「聴聞会を二度に分けるというのはいかがでしょうか?まず五元老の皆様の前でのみ行い、その後二度目の…可能であれば、ですが。今までに自分自身が判断される場においてそのような機会が与えられた者がいますか?」
「それはつまり、最終的には許可されないかもしれない上で何かを約束しろということかね?」
「二度めの聴聞会は一度目の成功が前提です。これは保険です。もし何か間違った方向に進んでも…」
エネアは笑みを浮かべた。冬のように、凍えた笑みだった。
「素晴らしい。…ではヴェオヴィス、下がってよい。三日のうちに結果を報告せよ。問題がないようなら、一週間後に我々は少女とまみえよう」
ヴェオヴィスは深くお辞儀をした。
「お望みのままに、マイロード」
踵を返して退室するヴェオヴィスを、父であるラケリが呼び止めた。
「ヴェオヴィス」
「はい、父上」
「お前の友人、アトラスだが」
「彼が何か?」
「できればメンバーに引き抜いておけ。彼は若手のうちでも有能だ。彼がお前の隣にいることで、多くのことがスムーズに行くだろう」
ヴェオヴィスは微笑み、ふたたびお辞儀をした。
「そのようにいたします、父上」
そして互いに頷きを交わし、ヴェオヴィスは部屋を後にした。

皆が去った後もエネアは長い間執務机に向かったままだった。手元には開かれたスケッチブックがあり、木炭で描かれた自身の顔があった。
自分の顔をまじまじと眺めるのは久しぶりかもしれない。エネアは似顔絵を眺めながら、かつて慣れ親しんだ顔の特徴を削り落とした時間の流れや出来事に思いを馳せた。
エネアは生来、思慮深い男だった。そうではあったが、その思考は主にこの岩で囲まれた小さな社会の外に向けられていた。心の中でより大きな世界について考えることをやめたことは滅多になかった。あの少女が描いたこの絵がそれを思い出させた。
いくつもの希望と喪失、野心と失望、理想主義とこの長い歴史を守ることの重圧…それらが自分の肌に残した、痕とでも言うべきものをエネアは今見ることが出来た。エネアは自分の顔を一種の仮面で、長い年月とともに石で覆われてきたと考えていた。だが間違っていた。それらは全て、この青ざめた石のような肌に、タブレットのように刻まれてきたのだ。それを読むことを望む全ての者のために。
彼女が「普通」だったら…
その先を考えることをやめた。だがその想像は、この絵のように彼の心を深く乱した。
聴聞会に賛成した時は、他の人々同様、単純な、容易な問題だと考えていた。未開人を人々の前に引き出して、質問し、後は処分すれば…人道的に、牢獄の時代へ…それでいいと思っていた。しかし今、そんな考えは忘れてしまった。
少女はそんな単純な未開人ではなかったのだ。
エネアはスケッチブックを閉じ、弱々しくため息をついた。
「彼女が『普通』だったら…」

「ヴェオヴィス」
顔を上げたヴェオヴィスの顔はいつもの快活さがなく、疲れているように見えた。寝ていないのかもしれない。
「ああ、アトラス。よく来てくれた」
ヴェオヴィスは向かいの椅子に座るよう促した。ここは記述ギルドホールの巨大な多目的ルームだ。とても広い正方形の部屋で、おびただしい数の大きな背の高いアームチェアで埋まっている。ギルドマンたちはよくこの部屋でミーティングを行うのだが、まだ早朝のためか、数人の姿しか見られなかった。
ヴェオヴィスは少し笑って、アトラスの方を見た。
「昨晩、エネア卿の召喚を受けた」
「なんだって?」
ヴェオヴィスは声を落として続けた。
「俺にやってほしいことがあるそうだ」
「一体何を?」
「彼らは聴聞会を中止したがっている」
アトラスは身を乗り出した。
「だがエネア卿自身が、評議会全体の前で聴聞会行うと表明したじゃないか。いきなり中止になんてできないだろう!」
「そうだな。だから俺に、個々のメンバーへの説得を頼んだという訳だ」
「それが俺を呼んだ理由か?説得のために?」
「そうじゃないよ、アトラス。君は君の思う通りにすればいい。だが俺の父が、君と話をすべきだと言ったんだ。それが呼んだ理由さ」
「俺は君に従ったりしないぞ、ヴェオヴィス」
「父は君が俺の手助けをしてくれることを望んでいるんだ。君ならそうしてくれると」
「それで何と答えたんだ?」
「君と話してみる、と答えた。それだけだ」
アトラスは笑った。
「わかった。駆け引きはなしだ。俺の助けが必要か、ヴェオヴィス?」
ヴェオヴィスも微笑んだ。
「君さえよければ、歓迎だ」
「じゃあ全部話してくれ。詳しくな」

その夜アトラスはギルドホールの自室に戻らず、シティ上層北東、「時代公園」を見下ろすジャレン地区へ向かった。そこにはアトラスの生まれ育った家があるのだ。母はアトラスの顔を見るととても喜んでくれた。だが今回帰ってきた目的は父、カーリスに会うことだった。
母との抱擁を終えると、アトラスは二階へと続く階段へと目をやった。
「父さんは書斎?」
「ええ。なんだか忙しそうよ。朝までに報告書をまとめなきゃいけないんですって」
本棚に囲まれた大きな書斎へ入ると、カーリスは山のように積まれた書類の向こうで顔を上げ、微笑んだ。その顔には疲れが見える。
「おお、アトラス。調子はどうだ」
「ただいま、父さん。ちょっと話ができる?」
カーリスは書類の束にちょっと目をやり、ペンをスタンドに戻して椅子に深く腰掛けた。
「なんだ。大事な話か?」
アトラスは正面の椅子に座った。
「例の侵入者についてなんだ」
「うん?」
「今朝早く、僕はヴェオヴィスに会いに行ったんだ。ギルドホールに呼ばれてね。なんだか妙な様子で…僕は何があったか尋ねたんだ。彼は五元老の代理として、ある任務を言い渡されたらしい。そしてそれを手伝ってもらえないか、と」
「それでお前は手伝いを約束したのか?」
「うん」
「それで…なにか問題があるのか?」
「気が進まないんだ、父さん。どう自分が関わるのかもはっきりしないうちに返事をしてしまった」
「ふむ。お前らしくないな」
「うん…でもヴェオヴィスは友達だ。彼の頼みを断るのは難しい」
「なるほどな。だが、五元老がお前に与える『任務』について難しいと感じている本当のところは何なのだ?」
アトラスは父を見つめた。
「父さんは何も聞いていない?」
「私が何を聞いていると思っているんだ?」
「例の少女は、もう流暢にドニ語を話せるらしい」
カーリスは笑った。
「冗談はよせ、アトラス。噂では彼女はせいぜい自分の名前をかろうじて言えるくらいってことだったぞ」
「噂は間違いだったんだ」
カーリスは不意に真面目な様子になって言った。
「なるほど。それなら聴聞会はすぐ開かれそうだな」
「まさにそこなんだけど、五元老はもう聴聞会を開きたいと思っていないらしい…少なくとも全評議員の前では。彼らだけの密室で行おうと考えているんだ。それでヴェオヴィスと僕に、評議員の説得をさせようとしている」
カーリスは息子を見つめた。
「なるほど…この時点で、よく私を尋ねてくれた、アトラス。エネア卿は全評議員の前で、と約束した。そして約束は守られるべきだ。当然な」
カーリスは椅子から立ち上がり、机を回って歩いてきた。アトラスもまた立ち上がり、父と向かい合った。
「僕たちはどうすべきかな?」
「私がエネア卿に会いにいこう。この案件は最優先だ。彼に私が聞いた噂を伝え、それらはデマだという確認を得てこよう」
「ありがとう。でも僕のことは話に出さないでもらえるかな」
「もちろんだ」
カーリスはアトラスの手をしっかり握った。
「何も心配するな、アトラス。お前の難しい立場はよくわかっている。もしかしたらヴェオヴィスがお前が私に話をしたと考えて、そのことを咎めるかもしれんが、エネア卿の耳には入っていないだろうことを確認してこよう」
「今の所気づいてはいないと思うけど…」
カーリスは微笑んだ。
「推測と、事実として知るまでの間には暗く長いトンネルがある。騙そうと思う気持ちがあるわけではないことはよくわかっているさ、アトラス。だがこの話はヴェオヴィスと一緒にした方が良かったかもしれんな。彼にとっても、なによりお前自身にとっても」
「これが一番いいと思ったんだ」
「うむ。ありがとう、アトラス。お前は正しいことをしたよ」

使用人がドアをノックした時、エネアは既にベッドの中にいた。
「ジェダー、何事だ」
エネアよりひとつかふたつほど年下の老人が扉から顔をのぞかせた。
「グランドマスター・カーリスです、マイロード。遅い時間ということはわかっているが、お目通し願いたいと。最重要案件、とのことです」
エネアはため息をついてゆっくり起き上がった。
「頭をはっきりさせるからしばらく待ってくれるよう頼んでくれ。すぐに向かう」
「かしこまりました」
皺だらけの顔が引っ込むと、エネアは冷たい床に足を下ろした。
この地位について、しばらくは豪華さを楽しんだ時期もあったが、最近は身の回り全てを簡素にしている。
洗面所で顔を洗い、小さな布で拭う。執務用のマントをまとい、ボタンを留める。
「今行く!」
エネアはそう呼びかけると、片手で灰がかった白髪をなでつけ、小さな鏡で確認した。
「さて、マスター・カーリスのご用件はなにかな」
カーリスは書斎で待っていた。エネアが入室すると急いで立ち上がり、礼をした。
「申し訳ありません、エネア卿」
エネアは手を振った。
「よい。何事かね、カーリス?新しい洞窟の計画でもあったかな」
そうでないことは承知だった。カーリスはそんなことでエネアを叩き起こしたりはしない。実際のところ、用件はわかっていた。おそらく誰かが来るだろうと、エネアは半ば予期していたのだ。それがこんなに早くというのにはいささか驚いたが。
エネアが椅子に座るとカーリスは一歩進み出て、机の前に立った。
「いいえ、マイロード。新しい洞窟の計画はございません。それよりも、ここのところ耳にするある噂についてのお話です」
「噂?」
エネアはわざと無知を装い、鋭くカーリスを見つめ返した。
「噂について話すために私を起こしたのか、マスター・カーリス?」
「皆が心配しているのがこのような重大な件でなければ、卿を煩わせるつもりはありませんでした」
「重大な件とは?」
「聴聞会です」
カーリスは一瞬ためらって、続けた。
「噂はこうです。五元老は聴聞会を密室で行おうとしている。そうなのですか、マイロード?」
エネアははじめて微笑んだ。
「そのとおりだ」
カーリスは驚きのあまり立ち尽くし、瞬きした。
「…理由をお伺いできますか、マイロード」
エネアは椅子を勧めた。
「座りなさい、マスター・カーリス。説明しよう。我々がこの件をどう考えているか…それを君が理解することがきっと我々の助けになる」

書斎の扉が鋭くノックされた。アトラスは自分の机で、ギルドハウスを出る前に自分の仕事の遅れを取り戻そうとしていたところだったが、仕方なく立ち上がり扉を開いた。訪れたのはヴェオヴィスだった。アトラスの肩をかすめるようにあわただしく部屋に入ってくると、ベンチにどかっと腰を下ろした。その顔は暗く、怒りを抑えているようだった。
「聞いたか」
「聞いた?何をだ?」
「聴聞会のことだ。結局やるらしい。五元老は心変わりした。一週間後に開催だとさ」
「全評議会の前でか?」
ヴェオヴィスは頷いた。アトラスと目を合わさず、まっすぐ正面を見つめていた。つい先ほど行われた会議を反芻しているようだった。
「間違っている…エネア卿に言ったんだ。その判断は誤りだと。きっと後悔すると…だが頑なだった。『約束は約束だ』と。まあ、それについてもうどうのこうの言いはしない。だが、状況は変わった」
「少女に発言を許すことは危険だと考えるのか?」
ヴェオヴィスはアトラスを一瞥した。
「疑問の余地があるか?俺は確信している。少女は狡猾さ、生まれつきな。みるがいい、やつは俺たちの舌をも操っているじゃないか」
「それは…」
「俺には解る。俺が恐れているのは、同じように評議会すら操られるんじゃないかってことだ。やつは自分を調べるためにやって来たうちの何人かを既に丸め込んで、情報を聞き出している疑いがあるとのことだ。大胆にも!」
アトラスは向かい合って座った。
「続けてくれ」
「言語ギルドの一人は、やつの無邪気な演技にあてられて、うかつにもリーヘヴコーの存在をやつに漏らした。それを聞いたやつはリーヘヴコーの写本を見せるよう迫ったそうだ」
「それは許されないことだろう」
「その通りだ。それが理由で、ギルドマスター・ヒーミスは調査チームから外された」
「なぜ今まで知らせてくれなかったんだ」
「俺も今朝知ったんだ」
アトラスはため息をついて頭を振った。
「さぞ…失望しただろう」
ヴェオヴィスは顔を上げ、うなずいた。
「それで、どうするつもりだ?ヴェオヴィス」
「どうするだって?」
ヴェオヴィスはこれまで見せたことのない、辛辣な顔をしていた。
「できることはなにもない。完璧な息子を演じて、ただ口を噤んで眺めるだけさ」
「お父上がそうするように言ったのか?」
「なにも言いやしないさ。だが他にどう解釈できる?」
ヴェオヴィスはうなだれた。
「だがな、アトラス。彼らは必ず後悔することになる。必ずな。あの少女は狡猾だ」
「少女に会ったことが?」
「いや。だがその行動から解る。やつは野蛮で、道徳も持たず、狡猾でしかない。その言葉は毒だ。我々を望まない方向へ進ませる。俺が恐れているのは、それだ」
「じゃあ彼女の言葉への反論を用意しなければな」
ヴェオヴィスははっとしたようにアトラスを見て、微笑み頷いた。
「ああ、そうだ、もちろんだ。反論しなければ。嘘を暴くための真実を。やはりお前は素晴らしい、アトラス。絶望の中で、俺の支えだよ!」
ヴェオヴィスは立ち上がりアトラスを抱擁した。
「ここに来た時落ち込んでいた心が新しい希望で満たされたよ、アトラス。お前の言う通りだ。俺は正しい理由を告げる声にならなければな。闇を吹き飛ばす、激しく強く輝く光に!アトラス、友よ。俺と一緒に発言してくれるか?」
「ああ、真実を語ろう。俺の見たままの…今のところ約束できるのはそれだけだ」
「十分だ。真実を見せることを約束する。やつの見せかけの純真さに目を奪われるな。その仮面の下には企みがある。それを見て、話してくれ」
「わかった」
「よし。仕事を邪魔して悪かった…なあ、アトラス」
「どうした?」
「ありがとう。やはり君は一番の友達だよ」

シティ下層の狭い路地は人で溢れていた。大ギルドホールへ続く坂を進む行列を見物に来た人々だ。シティガードの小隊が見物人たちを押し分けて、八人のギルドマンに支えられている大きな籠から遠ざけていた。ギルドマンは全員メンテナーだ。籠の前後には長い旗竿を掲げる者が随伴していた。
カーテンで覆われた籠の中で、アナは椅子に座って群衆を眺めていた。何人かが叫んでいるが、まだドニ語を完璧にマスターしたわけではないアナの耳には奇妙な発音に聞こえた。だがそのうちの何人かは敵意を表していることはわかった。それは珍しい展示物というよりも、外国で囚われた異世界の獣が広場に引き出されて見世物になっている、というほうがしっくりきた。
アナは見物人の男、女、子どもたちを見回した。どの顔も同様に奇妙な面長で、この六ヶ月でようやく見慣れてきた特徴だった。実際、昨夜自分の顔を鏡で見たときには自分の顔がとても奇妙にすら思えたものだ。厚く肌の荒い鼻と口、重すぎる頬骨、彫りが深すぎる顔。皆は自分をそう見ているのだろうか。
ゲートを通り過ぎると群衆は全くいなくなった。富裕層の地区に入ったのだ。家の外に立っている市民たちはみな華やかに着飾っており、しかしその好奇心はむしろ下層の人々よりも激しいようだ。
路地が突然開けた。
百万フィートもあるだろうか、大理石でなめらかに覆われた舗装路が伸び、その曲がりくねった道の両側に建つ屋根なしの家は、下層のそれとはまったく別物だった。
その違いを見たアナは心の中で頷いた。
これがこの社会なのだ。貧しいものは服も家も均一的で、富めるものは…なにもかもが上質だった。昔、アナがまだ幼い頃に父親が話してくれたことがある。俺は文明のそういった暗い側面に幻滅したのだ、と。
今、アナはこの小さな帝国に真正面から向き合っている。恐ろしい気持ちが無いわけではない。だが独房で過ごした日々は、アナに十分な心の準備をさせた。彼らはアナをもっとひどい状況にすることができただろう。だがアナはまだ心折れず、後悔もせずに済んでいる。
後悔すべきことがあるとしたらなんだろう?地下で迷子になったことか?違う。父はいつも言っていた。
「自分自身を信じていりゃあ、周りがどう考えてても関係ない。良心に従え。そうすりゃ全てうまく行く」
そしてこの数ヶ月で最もはっきり聞こえた父の声が、アナを勇気づけた。
「臆するな、アナ。なによりも自分を信じろ」
アナはこの先起こることに怖気づくつもりはなかった。何を言われようがどう判断されようが、誇りを持って自分自身を保つ。それだけだ。
次のゲート…両側に警備のための塔を備えた巨大な石造りの門の手前に、ギルドの上位者たちによる一団が出迎えのために待ち構えていた。知らない顔ばかりだったが、一番前に立っている三人はよく知っていた。
「降りてきなさい、アナ」
エネア卿はそう言って籠に近づき、丁重にアナの手を取った。
「ここからは歩いてもらわなければならん」
エネアの助けによって籠を降り、グランドマスター・ジーランと部下のギルドマン、ジーメルの間に立つ。いざ自分の足で立たなければならなくなると、とたんに自信がなくなってきた。鼓動が早くなる。もうすぐそこに人々が集まっているのだ。
ゲートの向こうは急勾配の大通りで、広場へと続いていた。そこでアナは気づいた。周りを見回す。やはりそうだ。この広場は独房から何度も目にした場所だ。こんなに重要な場所だとは思っていなかった…今の今までは。
いま正面に見えるギルドハウスは前面に巨大な玄武岩の六角柱が並んだ巨大な多階層建築で、大洞窟の天井に迫るほどの高さだった。わざわざ尋ねるまでもない。掲げられている様々なギルドのマークが入った盾が、その建物がなんであるかを示していた。広場から周りに伸びる路地はいずれもギルドマンたちで溢れており、若者から老人まで全員が、様々な色のマントを羽織っていた。ワイン色、黄色、ターコイズ、クリムゾン、エメラルドグリーン、黒、クリーム色、ロイヤル・ブルー…それぞれのギルドを表す色だ。
側に立ったエネア卿は普段よりもさらに無表情であるように見えた…が、アナにはわかっている。彼は優しくはないが、公平だ。アナの助けになる人がいるとすれば、それはエネア卿だった。マスター・ジーランはアナに好意を抱いていないことは知っている。マスター・ジーメルは、アナを永遠に幽閉してしまうべきという考えだ。ほとんどそれに等しい言葉を吐かれたことがある。マスター・ヒーミスだけは優しかった。だが彼は任を解かれた。
エネア卿が手を振り、アナを中心にした一団は歩き出した。
今回は少なくとも、枷はつけられないみたいね。
でもなぜ枷をつけたのだろう?私が何をするというのだろうか。逃げる?まさか。逃げる場所などどこにもありはしない。羊の囲いに紛れ込んだ山羊みたいに、どうしたって私は目立つ。
ホールに続く大理石の階段に差し掛かったとき、ジーランが顔を寄せて囁いた。
「直接質問に答えるように言われない限り、絶対に口を開くんじゃないぞ。わかったな、アーナ?もし勝手に口を聞いたら、エネア卿はお前にさるぐつわを着けさせるだろう」
アナはびっくりして振り返った。だがその老いた男はただ頷くだけだった。
「勝手に喋らないこと、これが規則だ」ジーランは続けたが、階段を登り始めるとほとんど聞こえなくなってしまった。
「いいつけをしっかり守り、聞かれたことにのみ答えるんだ。いいな?」
アナは頷いたが、同時になんだかすべてがどうでもよくなった。ずっと感じている、胃が痛くなるような緊張がどんどんアナを不安にさせたが、アナはそれに抗った。膝を屈し、頭を下げてしまいそうになるその気持ちに。
喉が渇く。手が震える。
ふざけるな。背を伸ばし、拳を握る。震えを止める。結局のところこれはただの聴聞会だ。裁判じゃない。言うとおりにしてやろうじゃないか。どんな質問にもはっきり答えてやろう。私の言うことが真実だと受け止めてくれるかもしれない。そもそもなぜ私が嘘をつく必要があるというのだ?
周りの建物よりもひときわ巨大な大ホールの内部は、それぞれの壁に向かって階段状の議員席が取り囲む造りだ。その頂上には巨大な大理石の台座があり、大きな玄武岩の玉座が並んでいた。それぞれの椅子に座る、百名をゆうに超えるマント姿のギルドマンたちは皆、評議員の証である太い金色の鎖を首から下げていた。
その広い空間にはたった二つの穴しか開いていなかった。たった今入ってきた入り口と、反対側の壁にある扉。
エネア卿は一段を引き連れて大理石の床を進み、立ち止まるとアナの方を振り向いた。
「そこへ立つのだ、アーナ」
アナは頷いて、エネアが自分の玉座へと歩いていき、こちらを向いて座るのを眺めた。
周りを見回す。着席している多くのギルドマンは老人だ…エネアのような白い髭を生やしている。だが一人か二人は若いものもいる。ドニの基準で、だが。特にその中の二人がアナの目を引いた。彼らは並んでエネア卿のすぐ左手に座っていて、一人目は明るい赤の飾りがついた黒いマント、二人目は明るい青色だった。
アナは彼らの顔を眺めた。きっとエネア卿のようにほとんど無関心な表情なのだろう。しかし予想に反して彼らはじっとアナを見つめていた。一人は興味深そうに、そしてもうひとりは明らかな敵意をもって。
それを見てアナは突然血が凍るような気持ちになった。体が震える。間違いない。彼が何者かは知らないが、その若いギルドマンは明確にアナに憎しみを抱いている。
しかし、なぜ?
「アーナ!」
エネア卿の声がホール中に谺した。
「はい、マイロード」
「なぜ君がここにいるか分かるかね」
アナは自分を奮い立たせるように、はっきりと声を出した。
「質問に答えるためです。エネア卿」
「よろしい。しかし守ってもらうことがある。質問への返答から外れた内容を発言してはならない。理解したかね?」
「わかりました。マイロード」
「よろしい。それでは始めよう。我々には多くの質問がある」

籠に乗り込んでカーテンを引くと、アナはひどい疲労を感じた。
約五時間の間アナは質問に答えるため立ち続けたのだ。休憩はなかった。
シートのクッションに深く沈み込み、アナは聴聞会を振り返った。
お前は何者なのか?どこで生まれたのか?両親は?お前の父は何をしていたのか?お前の父親が行っていた調査は誰のためのものか?タジナーとはどのような場所か?統治形態は?戦争はあるのか?機械は存在するか?利用するエネルギー源は?お前の種族は道徳的であるか?
いくつかの質問は簡単に答えることができるものだった。その他は、特に最後の質問などは非常に難しかった。道徳的であるか?幾人かは、そうだろう。父のように。
だがジャーニンドゥ・マーケットの商人たちなどはどうだ?アマンジラのもとで働く監査人やブローカーなどは?彼らも皆、正直者であると主張することはアナには難しかった。だが質問したギルドマンは単にはい、かいいえ、で答えることを要求してきた。
しつこく追及してきたそのギルドマスターは若かった。始まるまえにちらっと見た、あの男だ。
「それで、お嬢さん?君らは皆道徳的なのか?」
「いいえ、マイロード。すべての者が道徳的ではありません」
「ならば君らは、生まれつき非道徳的だというのか?」
「いいえ、すべての者が、ではありません」
「待ちたまえ、おかしいじゃないか。君らは生まれつき道徳的か、そうでないか。一体どちらなんだ?」
「ドニの人々は皆、生まれつき道徳的なのでしょうか、マイロード?」
部屋の空気が一瞬にして張り詰めた。ただちにエネア卿が立ち上がり、諌めた。
「質問にのみ答えよ。お前からの質問は許さない」
アナは頭を下げた。エネア卿はそれを睨みつけ、他の元老に合図を送った。それで聴聞会は終わりとなった。だが明日か、また必要に応じて別の日に聴聞会が行われる事となった。アナが洗いざらい話すまで。
アナはクッションに顔を埋め、移動を始めた籠の振動にしたがって目を閉じた。
まぶたの裏に若い男の顔がはっきりと浮かび上がる。
ヴェオヴィス、と言ったか。整った顔立ちの、貴公子然とした男。最初から最後まで、アナを見るその目には常に疑いの光があった。
もう一人の隣に座っていた男は、たびたびヴェオヴィスに顔を寄せて何事かささやき、ときに頷いていた。おそらくヴェオヴィスの仲間なのだろうが、不思議なことに彼の視線には一度もアナを非難する色は浮かばなかった。そして一度も質問を行わなかった。
その顔をはっきりと見て、アナはなんて奇妙なことだろうと思った。長く、厳しい顔をしていた。魅力的でないというわけでもないが、ヴェオヴィスほどハンサムでもない。いわゆる学者タイプの雰囲気だった。とすると、ドニ人はみな学者風の顔つきなのだろうか?
籠の振動がアナを落ち着かせてきた。しばらくまどろみ、再び目覚めたときには自分がどこにいるのかすぐにはわからなかった。
そういえば…はじめてアナは疑問に思った。彼らはアナの供述をどのように用いるのだろうか。アナが見たトンネル、地表へ続くトンネルは、彼らが持つ地表に対しての興味を示している。だが彼らがアナから得た情報でなにを計画するかどうか、アナにはわからなかった。例えば、彼らはアナの種族が好戦的かどうかについて非常に気にかけていたように思える。彼らは地表を侵略しようと計画しているのだろうか?そのためにトンネルを作った?
しかし…よく考えたら、それはアナにとっては正直どうでもよかった。アマンジラはさておき、タジナーに親しい人間などいない。いや、タジナーに限らず、国全体でもそうだった。アナが愛した二人はどちらも死んだ。地表が侵略されるとして、それが問題だろうか?
しかしアナは思い直した。もちろん問題だ。私の発言が国の運命を決定するかもしれないのだ…それに、なんであれ戦争は良くないことだわ。
その考えにアナは滅入った。地表のことをこれ以上話すのをやめるべきだろうか。もうすでに話し過ぎてしまったかもしれない。
問題は、彼らのことをほとんど知らないということだ。アナはすべての質問に答えたが、彼らはできるだけアナから距離を置くように気をつけていた。まるでアナがスパイとでも言わんばかりに。
アナは深く長い溜息をついた。つまり彼らはそう思っているということだろうか?
まあ、それほど深刻なことでもないかとアナは笑った。まったくスパイだなんて!何考えてるのかしら。
もしそうだとしても、あの若いギルドマンの敵意はちょっと度が過ぎているように思える。なにかまた別の理由があるのかしら?
…私を脅威と考えている…?
それははっとするような気付きだった。そしてドニへ来て初めて、自分の命が危険にさらされている可能性について思い至った。

「ふむ?」
もう夜も更け、部屋に残っているのは元老たちだけであった。
「君はまだ彼女が脅威であると考えているのかね、ネヒル?」
机をはさんで椅子に腰掛けているネヒル卿が顔を上げる。その目は挑戦的だった。
「彼女がではない、エネア。だか彼女の言葉は脅威たりうる。個人的に、我らが聞くべきことは十分聞いたと考えている」
「私もそう思う」
隣に座るラケリ卿が同意した。
「彼女自身は、ここにいる我らにとっては大した問題ではない。問題は、地表種族との接触へと話が向かう恐れがあるということだ」
「真の脅威はそこにあると?」
ラケリ卿はエネア卿を見つめて、ひとつ頷いた。
「知っての通り、私は最初ヴェオヴィスの意見に賛成しなかった。しかし我が息子の視点はまったく正しかったと言わざるを得ない。あの少女の言葉が真実ならば…私は真実だと思っているが…地表種族は後進的で、好戦的で、非道徳。あらゆる活動の動機は、強欲さだ。」
「彼女の話からそこまで読み取れたかね?」
「実にね。君も聞いただろう。彼女の話はすべて彼らが備える深刻な腐敗についてだったではないか!」
「そうだな」
部屋の隅に座るリラ卿が静かに同意した。
「これ以上聞くべきこともない。よそ者と接触について考えること自体、馬鹿げている」
「サジカ、君は?」
つい先日、五元老に任命されたばかりのサジカ卿は、ただ頷いた。
「ならば我らは動議を発する」
エネア卿は皆を見渡した。
「明日十ツ鐘に全評議会を招集し、審議を執り行う。だがそこで話し合う議題は、残された小さな解決すべき問題についてだ。『少女をどうすべきか?』」
「帰そう。地表へ」
ラケリ卿の提案に、リラ卿が反対した。
「危険すぎる。可能性は低いと思うが、誰かが彼女の物語を信じてやって来るかもしれん」
牢獄の時代プリズン・エイジへ送るべきかもな」
ネヒル卿が提案した。
「ひどい場所でなくともいい。可能ならばどこか快適な時代へ。必要となれば新たな時代を作ってもよいと考える」
「快適かどうかはさておき、それが彼女の我々への誠実な態度への正当な報酬であると君は思うかね、ネヒル?」
エネア卿は全員の顔をそれぞれ見つめ、誰もが沈黙したままなのを確認すると、頷いて言った。
「少女はドニにこのまま留まらせる。正式な決定が出るまでの仮住まいを探さねば。皆よろしいか?」
「同意する」
「同意する」
「同意する」
サジカ卿は最後まで黙ったままだったが、冷たい微笑を浮かべると、頷いた。
「同意する」

この夜、港の一角に建つ宿にて行われた祝賀パーティーの会場で、ヴェオヴィスは上機嫌だった。
アトラスはそのような場を訪れるのは初めてだったので、さまざまに言い訳をして不参加を試みたが、ヴェオヴィスは聞き入れなかった。
そんな訳で、アトラスは騒がしいテーブルが並んだ大きなダイニングルームの隅で壁に張り付いていた。何十人もいる若いギルドマン達…そのうちの何人かはアトラスとも親交があったが、それ以外はただの「顔」でしかなかった。そんな顔たちが、テーブルの中央に置かれた酒樽から自分の盃に酒を汲んでは飲み干し、この若い君主の成功を祝っている。
「最後の質問が決定的だったな!」
スァルニルが顔を興奮に輝かせている。
「他の質問はどれも形式的なものばかりだった」
「そうかもしれん」
ヴェオヴィスが答え、立ち上がってテーブルの向こうのアトラスへ視線を向けた。
「ただ一つ言わせてほしい。俺はあの少女について誤解していた」
「誤解?」
さまざまな場所で声が同時に上がった。
ヴェオヴィスは手を上げ、開いた。
「皆様、お聞きください!私は聴聞会の前から、少女がどんな種類の生き物であるかを証明する方法を明確に思い描いていました!そしてそれをためらわなかったことはご承知のとおりであります!」
笑いと、頷きが沸き起こる。
「しかし!」
ヴェオヴィスが続ける。
「非常に認めたくないことだが俺は間違っていた。地表種の長所やその他の点について、彼女はよく、とてもよく語った。率直に認めよう。皆もそう感じているんじゃないかと思う」
もごもごと同意の声がいくつか聞こえ、頷く頭があった。
「彼女をドニに留め置く、それが元老の決定だ。それが公共の利益となるか?それはまだわからない。だが元老は決定を下した。そして俺は、俺達はこれを一度受け止め、経過を注視すべきだと思う…その意味はつまり、用心を怠るな、ということだ」
「それはつまりどういう意味だ?」
ヴェオヴィスに常に影のように寄り添う側近、リアニスが尋ねた。
「つまり今日の決定に逆行するようなあらゆる動きにおいて、彼女が注目されるようなことがあってはならないということだ。つまり、不可触だ」
「もし仮に注目された場合はどうするんだ、ヴェオヴィス?」
スァルニルが尋ねた。
ヴェオヴィスは微笑んで自信たっぷりに周りを見回した。
「その時は…彼女にはドニからもっとふさわしい場所へ移動してもらうよう、行動を起こさないとね」
側でやりとりを聞いていたアトラスは顔をしかめた。牢獄の時代。つまりはそう言っているのだ。
しかし止めることはできなかった。彼は彼の考えにおいて、可能な限り公平な態度を取っている。
アトラスは輪を離れると盃を取り、胸に抱いた。ヴェオヴィスがとても楽しそうなのはアトラスにとっても嬉しいことだが、今日の決定に対する彼らの歓喜に同調する事はできなかった。きっとヴェオヴィスの言うように、感傷が彼の判断を鈍らせているのだろう。だがやはりアトラスの一部は未だ岩の中にあり、マスター・テラニスやジェラール、測量ギルドの皆…若き日の冒険とともに去ってしまった人々と、地表を目指しているのだった。三十年の月日が流れたが、その若き日の自分自身をアトラスは捨て去ることができなかった。
少女の語る姿。
それを見てはっきりした。アトラスは地表との接触を望んでいるのだ。接触、いや、それ以上をだ。地表に立ち、自分の目で眺めたい。地表がどんな様子なのかを。
だがそれをヴェオヴィスや彼の仲間たちに伝えることができるはずもない。ヴェオヴィスなどは地表を呪われた地と思い込んでいるのだ。
「ギルドマスター・アトラス?」
テーブルの喧騒を割って、呼びかける声があった。若いギルドマンの誰かだろうかと顔を上げたアトラスだったが、そこに立っていたのはリアニスだった。リアニスと、そのすぐ後ろに立つマント姿のギルドマン。メッセンジャーだ。
テーブルは静寂に包まれた。アトラスは盃を置いて立ち上がった。
「なんでしょうか」
「緊急のメッセージです。マスター」
そう言って手袋を脱いだメッセンジャーは、チュニックのポケットから封された手紙を取り出した。
「あなたがこの内容に直ちに取り掛かることを確認せよ、と言われております」
ヴェオヴィスが微笑んで手を差し出した。
「よこせ。俺が彼に手渡そう」
メッセンジャーはアトラスが頷くのを見てヴェオヴィスに小さく礼をし、手紙を手渡すと一歩下がって再び手袋をはめた。
振り向いたヴェオヴィスは手紙をためつすがめつ眺めて言った。
「確かに緊急の仕事だぞ、アトラス。こいつはエネア卿の封蝋だ」
アトラスはしばらく手紙を凝視した。確かに、これはエネア卿の印だ。だが封を切ると、その文書はエネア卿からのものではなかった。父からだ。アトラスは顔を上げた。
「すまない、ヴェオヴィス。行かなければ」
「トラブルか?」
ヴェオヴィスは素直に心配そうに尋ねた。
「言えない」
「そうか、わかった」
ヴェオヴィスはそう言ってテーブルの皆に道を開けるよう示した。
「さあ、行くといい。でも後で教えてくれよ?なにか手伝えることがあれば…」
アトラスはギルドマン達の間をすり抜けながら、曖昧な頷きを返した。そして宴席をあとにした。
ヴェオヴィスは席に座り、賑わう部屋をしばらく眺めていた。その顔は少し曇っていたが、再びテーブルの仲間たちを振り返ると、笑顔で盃を掲げ、叫んだ。仲間たちもそれに合わせて力強く唱和した。
「ドニのために!」

カーリスは玄関ホールを行ったり来たりしながら、息子の帰宅を待っていた。深夜を告げるシティの鐘が湖の向こうから響いてくる。
最後の鐘の余韻が消え、静寂が再び訪れる。その時、外門が軋む音と、続いて石畳を急ぐ足音をカーリスの耳が捉えた。ドアにはめ込まれたステンドグラスを透かして影が立つ。
カーリスはドアに近づき、閂を外してドアを開いた。
荒く息をつき、目を見開いたアトラスが立っていた。港から家までの残り半マイルを走ってきたらしい。
「一体何が?」
カーリスの後ろに目を向けてアトラスが尋ねる。
カーリスはドアを閉じて答えた。
「二階へ行こう、アトラス」
父の書斎へと上がり、ドアを静かに閉じる。
「私は例の少女を少しの間世話させて欲しいと頼んでいたんだ。そして今夜、私はエネア卿に呼び出さた。一時的な処置として少女…アーナを私の家に連れて行ってほしいと。彼女の正式な家の準備が整うまでの間…彼女への私の興味を理解されてのことだと思うが」
「それで父さんは僕に同意して欲しいのかい?」
「そうだ」
「なら、同意だ」
カーリスは続けて口を開きかけたが、息子の返事を理解すると意外そうに聞き返した。
「同意するのか?」
「母さんが同意して、もちろん父さんもそう思ってるのなら。僕に聞く必要はないさ」
それを聞くとカーリスはドアへと歩いていき、大きく開け放つと階下に向かって呼びかけた。
「タセラ!」
母が二階へ上がってくる。
「タセラ、お嬢さんを連れて来なさい。私達の息子を紹介しよう」

本で埋め尽くされた書斎におずおずと入ってきたアナは、警戒するように周りを眺めた。
「アトラス」
カーリスが少女を紹介した。
「こちらがアーナだ。しばらく我が家に滞在されることになった」
アトラスは敬意を表してお辞儀をした。
「ようこそ我が家へ。歓迎します」
「ありがとうございます」
頭を上げたアトラスとアナの視線が合う。
「滞在させてくださる厚意に心から感謝します」
「いいのよ」
タセラがそう言ってアナの手を取った。
「よかったらあなたの部屋を案内したいのだけど、いいかしら?」
紹介の短さにちょっと驚いたが、アナは言われるままにタセラについて廊下へと出ていった。
「ここがあなたの部屋よ」
開かれたドアから部屋ヘ入って驚いた。アナの生家、ロッジに比べるととても豪華な部屋だったのだ。アナは振り向いて頭を下げた。
「こんなに素晴らしい部屋…十分すぎます。ありがとうございます、タセラ」

港の宿で催された宴の夜から、一週間以上経ったある日。アトラスがギルドハウスと大図書館の間にある開けたスペースを歩いていると、姿を認めたヴェオヴィスが仲間たちのグループから離れてやってきて、アトラスの行く手を塞いだ。
「アトラス!俺の手紙は読んだかい?」
アトラスは立ち止まった。
「手紙…ああ、うん。忙しかったんだ」
ヴェオヴィスは微笑んでアトラスの手を取り、握った。強い力だ。
「それで彼女はどうだった?」
「ああ…礼儀正しく見える。とてもね」
「見える?」
アトラスはなぜか自分が防御的になっていることに気づいた。
「俺の印象だけどね」
「君はそれが本物だと思うかい?」
「違うのか?君もそう言っていたと思うが」
ヴェオヴィスは微笑みを絶やさず、緊張を和らげるように言った。
「俺の印象さ。認めるよ。でも俺は彼女と一日中暮らしてるわけじゃない。もし彼女の仮面にほころびが見られたら…教えてくれ、な?」
「見られたらね」
「いやいや、そういう意味じゃない。ただ…」
「ただ?」
「俺たちの間に嘘はなしだ。そうだろ?」
少女をまるで粗探しするかのような態度に、アトラスはムッとした。
「彼女は…不安そうだ」
「不安そう?どのように?」
「多分ここの全てが奇妙に感じているんだろう。開けた空の下で暮らしていたんだ。ドニに慣れるのは時間がかかるだろう」
「ホームシックか?」
「わからない。正直に言うと、尋ねてない」
ヴェオヴィスは笑った。
「というか、まだ彼女と言葉を交わしてないんだな?」
「言ったろう、忙しかったんだ。ずっと父の手伝いさ」
ヴェオヴィスはしばらくアトラスを見つめ、アトラスから手を離した。
「時々は休めよ、アトラス。そしてクヴィーアに来い。少女と一緒に」
「それはいいね」
「近い内にな。そうしたら…」
ヴェオヴィスはその後の言葉を続けずに、振り向いて歩き去った。
アトラスはその姿をしばらく眺めていた…彼が仲間のグループに再び交わり、笑い合って歩いていくのを。アトラスもまた微笑んで、歩き出した。正直、アトラスはヴェオヴィスに会うことを恐れていた。ヴェオヴィスが「よそ者」をどう思っているのかはよく知っている。アトラスの家族があの少女と暮らしているということに彼はきっと怒るだろうと思っていたのだ。だが、どうやら思い過ごしだったようだ。
予定の会議に遅刻していることに気づいて、アトラスは歩くペースを早めた。
クヴィーアか。
あの子にクヴィーアを見せてあげるというのは、いい考えだ。

その部屋は作業場か、実験室かなにかのようだった。アナはためらいがちに背後の誰もいない廊下へ目をやってから、部屋に滑り込むとドアを閉めた。
アナは自分に言い聞かせた。ここはあなたがいていい場所じゃないわ、アナ。だが好奇心には抗えなかった。どちらにせよここには長く居られはしないだろうし、アナ自身もなにかを邪魔するつもりはなかった。
部屋の左側には座面が石の長いベンチがあり、真ん中には大きなローテーブル。流し台とガス栓もある。反対側の壁には小さな戸棚がいくつも並び、さまざまな瓶がきれいに並んで収まっている。部屋の右側の隅には机と椅子があり、その向かう壁に設置された棚にはたくさんのノートが並んでいた。
アナは手を伸ばし、ひんやりしたベンチの座面に触れた。きれいに磨かれており、離したてからは不思議な香りがした。これはなんだろう。コールタール?ヨウ素?
ゆっくり部屋を見て回り、置いてあるものを手に取り、戻す。そこにある多くの道具は使い込まれていたが、ひとつかふたつ、アナにとって不思議なものがあった。特に目を惹かれたものは小さなブロンズの瓶だった。八つの注ぎ口がついていて、それぞれの下には小さなボウルが置かれている。瓶の中央には小さなスタンドがあり、小さなブロンズ球が載せられており、バランスを保っている。
アナは屈み込んで、それをしばらく見つめた後、部屋の反対側の隅まで歩いていった。
机の上にあるもので、地表と同じものが二つだけあった。精巧な装飾がなされた青翡翠のインクスタンドと、その隣に置かれた眼鏡。
アナはそれらを手にとってじっくりと眺めた。レンズは厚くいくつもの層にはっきり分かれていて、どうやら光に対するフィルターの役目もあるようだ。それぞれのレンズの周りには小さな金属のつまみがついており、伸縮性のある素材のバンドで締め付けられ、さらにその周りを厚い革のバンドで覆われていた。アナはつまみを調節してレンズの透明度がどう変化するか確かめて微笑み、さらに気まぐれにいじりまわした。変わっている。とても気密性が高い。そのような場所で用いられることを想定して作られている。それに実際装着してみると、とても暗い。
光量はどこで変えるのだろう?ふたたびつまみをいじくり回してみる。
ゴーグルを外し、机に置く。これを使う場所は一体どこだろう。鉱山?岩のかけらから目を保護するにはうってつけそうだ。でもそれならどうしてこんなに暗いレンズなのだろう。
アナは入り口のドアのほうをちょっと振り返り、しばらく耳をすませてから、今度は棚のほうに目を移した。手を伸ばして、ノートの一冊を取り出す。日誌のようだ。開くと、ページは奇妙な書き込みでいっぱいだった。これまで目にしたどんな文字とも違っている。ぱらぱらと数ページめくってみて、思わず手が止まった。そこには感嘆すべき図表が描かれていた。とても複雑で、線は細くてもはっきりとして黒く、陰影は微細に表現されている。これを見るだけで、彼らの社会が高度に整理された思考を持っていることがはっきりとわかる。
アナはノートを閉じてもとに戻し、最後にいちど見回すと、急いで部屋を出た。
ダメだわ。なにかしないと、退屈で死んでしまう。
考えに気を取られていたアナは、アトラスに気づかずぶつかりそうになった。
「こちらへ」
アトラスは静かに言った。
「少し話がしたい」
アナは驚きつつも、アトラスについていった。この一週間、彼と言葉を交わしたことはほぼなかった。さらに驚くことに、ついていった先は、さっき探検したあの部屋だった。
もしかして、気づいていたのかしら?
部屋に入ると、アトラスは扉を閉めてアナを机の側の椅子に座るよう促した。彼はアナの扱いに苦心しているようだった。
「これを」
アトラスは棚の一番上に並んだ本のうちの一冊を取り出すと、アナに差し出した。
「これはドニの歴史書だ。子供向けだけど…」
アトラスは言葉を止めた。アナはページをぼんやりと眺めている。
「これは何?」
アナはアトラスを見上げて、本を閉じるとアトラスに突き返した。
「私には読めないわ」
「えっ?でも…」
アトラスは頭を振った。
「待った…つまり、君はドニ語の会話は覚えたが、読むことはできないということか?」
アナは頷いた。アトラスは本をしばらくじっと見つめていたが、それを机に置くと再び本棚に向かい、一番下から一冊の本を取り出した。
それは大きく、正方形で、暗い琥珀色の革で装丁された本だった。
「これを。これが全ての鍵だ」
アナは本を手にとり、美しい表紙をじっと眺めてから開いた。ページは厚い上質の皮紙で、美しく複雑な文字が列に沿って並んでいた。文字というより、装飾された図形のようだ。
アナは顔をあげて微笑んだ。
「もしかして、これが?これがドニの辞書?」
アトラスは頷いて言った。
「そう。リーヘヴコーだ」
アナは再び本に顔を戻したが、悲しそうに微笑んだ。
「でも、私には意味がわからないわ」
「それなら僕が教えよう」
アトラスは真剣な眼差しで答えた。
「でも、それは許されないんじゃ?」
「ああ」
アトラスは頷いた。
「でも、教えよう」

島が近づいてきた。舳先に座るアナのすぐ後ろに座っていたアトラスは欄干をしっかり掴んで立ち上がった。
「あれがクヴィーア…」
アナは呟いた。
「一度見たことがあるわ。アーラットから移送される時」
アトラスは頷いた。
「あそこは昔からある一家が暮らしているんだ」
「あの時は、なんて奇妙なんだろうと思ったわ。まるで湖からドリルが突き出しているみたいだもの」
アトラスは微笑んだ。
「ところでヴェオヴィスって何者?」
「彼は採鉱ギルドのグランドマスター、ラケリ卿の息子さ」
「じゃあ彼も採鉱ギルドなの?」
「いや、違う。ヴェオヴィスは記述者ギルドのマスターだ」
「記述者のギルド?そんなものがドニにはあるの?それって重要?」
「はは、重要だよ。とてもね。多分、他のどのギルドよりも重要だ」
物書きライターズが?」
アトラスは黙っていた。
アナは驚いてアトラスを振り返った。今、島はゆっくりと近づき、その影は二人の頭上を覆うほどに大きくなった。
「ヴェオヴィスには兄弟や姉妹が多いの?」
「いや、一人息子さ」
「じゃあどうしてこんなに大きな館が必要なのかしら」
「ラケリ卿はよく客を招いてもてなしていた…病気になられる前までは」
アナはしばらく黙って、近づく島を眺めた。
じきに館に直結する小さな船着き場が現れた。石の桟橋が暗い長方形の入り口へと続いている。
「お友達のヴェオヴィスは私のことが嫌いなの?」
その質問にアトラスは驚いた。
「どうして?」
「どうしてって…聴聞会の間中、彼は私を見ていたわ」
「それは別に変じゃないと思うが。僕も見ていた」
「ええ。でも彼のようにではないわ。彼の眼差しには敵意があった。それに彼の質問…」
「彼の質問がどうかしたかい?」
アナは肩をすくめた。
「彼が私を連れてくるように言ったの?」
「彼は君を招待したんだ。特別に」
「そう」
アナはアトラスとの会話に奇妙なへだたりを感じていた。そしてアトラスはアナがなにを思っているのかがよくわからなかった。
アトラスはヴェオヴィスとアナに友人になって欲しいと思っている。二人が友人になれば様々なことがうまくいく…しかしそれは一筋縄ではいかないだろう。
「ヴェオヴィスは時々、率直な物言いをする」
「率直?」
「言っておいたほうがいいと思ってね。ちょっと無遠慮な部分がある。でも話はしっかり聞いてくれるよ。恐れることはない」
アナはちょっと笑った。
「怖がってなんかないわ、アトラス。ヴェオヴィスに限らず、どんなことにもね」

到着してから数時間かけてヴェオヴィスはアナにクヴィーアの中を、部屋という部屋を隅々まで案内した。ヴェオヴィスは楽しそうだった。
はじめは警戒していたアナも、次第にヴェオヴィスの持つ自然な魅力に屈してきたようだ。アトラスもリラックスしているようだ。
島の頂上に位置する展望台に続く階段を登りきる頃には、彼らの仲を心配していたことはまったくの杞憂だったと感じていた。
「石が融合しているみたい」
低いアーチをくぐって開けた場所へ出たところで、アナが言った。
「まるで一旦溶かして成形したみたいだわ…」
「完璧な見立てだ」
ヴェオヴィスは裏表のない熱意を込めて答えた。
「これはドニの特別な手法でね。ギルド関係者以外にはかたく秘密とされているんだ」
展望台の中央にはタイル張りの天蓋が設置されていた。壁はなく、四方を全て見渡せるようになっている。彼らの周りにはすべて湖が広がり、はるかにエーグラのねじれた巨大な岩が、その右手にはシティが見える。
彼らのいる場所はすでに相当高いが、大洞窟の壁面は更にはるか上まで伸び、その天井はうっすらと霞んで見えるほどだ。アナは笑ってしまった。
「どうかしたかい?」
ヴェオヴィスが尋ねる。
「外にいるとしか思えません。ああ、明かりはまるで違うけれど、でも…ええと、うん。めちゃくちゃ大きいですね」
ヴェオヴィスはアトラスと目を見合わせて微笑んだ。そして二人を展望台の端にしつらえてあるラウンジチェアへと誘った。
「ちょっと座らないか。召使になにか持ってこさせよう」
「ありがとうございます」
アナはそう言ってアトラスを見て、微笑んだ。
ヴェオヴィスが飲み物を手配している間、二人は座って待った。
「彼、とても楽しそう」
アナは小声で言った。
「どうして彼があなたの友人なのかわかったわ」
「じゃあ君は彼を許してくれたのかい?」
「許す?」
「君を傷つけたことを」
「ああ…」
アナは笑いだした。
「昔の話だわ」
アトラスは微笑んだ。
「僕も嬉しいよ」
「本当?」
「ああ。友だちになってほしいと思ってたんだ。でなければ大変だったと思う」
アナは眉をひそめた。
「知らなかったわ」
「僕は…」
ヴェオヴィスが戻ってきて、アトラスは黙った。ヴェオヴィスは二人の間のチェアに座り、それぞれの顔を見た。
「正直に言っていいかな、アナ?」
「正直に?何を?」
ヴェオヴィスはニヤッと笑った。
「我々は似ている。君と僕。どちらも愚直な人間だ」
ヴェオヴィスはアトラスをあからさまに見つめて、続けた
「無遠慮だと評する人もいる。だが気にしてない。僕は君とは違った傾向がある。正直、僕は君を積極的に嫌おうとしていた。だが僕は自分の見たとおりにしか話せない。そして、僕は君のことがとても気に入ってしまったんだ」
アナは小さい頷きを返した。
「ありがとうございます、ヴェオヴィス卿…でも、一体どうして?」
「ああ、お礼はいらないよ、アーナ。僕は君を好きになろうとしなかった。だが好きになることはできる。もちろん友達にもね…ただ、そのためにはひとつふたつはっきりさせておきたいことがある。僕はドニ人だ。そしてドニのあらゆるものを守りたいと思っている。我々は偉大で誇り高い人種だ。覚えておいて欲しい、アーナ。いついかなる時でも」
アナはヴェオヴィスの突然の、奇妙な冷たさに驚いて彼をじっと見つめ、答えた。
「それならば私も、マイロード、人間であり、誇りある存在です」
アナは凄みのある微笑みをたたえた。
「それを忘れないでください…いついかなる時も」
ヴェオヴィスは椅子に深く腰掛け、アナを考え深く見つめていたが、ふいに明るく笑顔になると膝を叩いた。
「さ、暗い話はここまでだ。アトラス、最近新しい洞窟の計画はあるのかい?」

家へ帰る道中、アナはずっと黙ったまま考えに沈み込んでいるようだった。そんな様子をみてアトラスは、彼らの会話が今まで以上に異質なものであったと感じていた。結局、彼らはどれほどお互いのことを分かったと言えるのだろうか?
「アーナ?」
顔を上げたアナの瞳は沈んでいた。
「なに?」
「この先、どうしたい?」
アナは後ろの湖を振り返った。
「ドニのあらゆることを理解したい。食料はどこで手に入れているのか。私には謎だわ。何か私には隠されていることがあるように思うの」
「僕にそれを教えて欲しいと思っている?」
アナは振り向き、アトラスを見つめた。
「ええ。その秘密が一体何なのか知りたいと思ってる」
アトラスは微笑んだ。
「じゃあ今夜」
アトラスは腕を組んで居住まいを正し、謎めいた答えを返した。
「今夜、君をそこへ連れて行くことにしよう」

ドアの鍵を開けて一歩下がったアトラスに、アナは尋ねた。
「中に入っていいの?」
アトラスは頷いた。
アナは肩をすくめた。このドアは以前目に留めたことがある。いつも鍵がかかっていて、食器なんかがしまわれている倉庫のたぐいだろうと見当をつけていた部屋だ。だが中は予想に反して、普通の部屋だった。部屋の中央に大理石の台座が置かれ、その上に一冊の本が開いたまま置かれている。…大きい、革張りの本だ。
アナはアトラスに尋ねた。
「何の部屋なの?ここ…」
アトラスはドアに鍵をして振り返った。
「ここは『本の部屋』さ」
「でもたった一冊しかないわ」
アトラスは頷いた。アナが意外に思うほど真剣な表情だ。
「ここへ来たことは誰にも言ってはいけない。父や母にもだ。いいね」
「え…これって良くないことなの?」
「いいや。だが君には禁止されている行いだ」
「それなら…」
「いいや、アーナ。君がここで暮らしていくのなら、理解しておくべきことだ。きっと君は僕らのことをとても単純な視点で見ている。僕らのことを、見損なっている。そう言っていい」
見損なっている?それはとても奇妙な言葉に思えた。
「あまり怖がらせないで」
アトラスは台座に上ると、置かれた本を優しく見つめた。
アナも隣に立つ。開かれたページに目を落とすと、左のページは真っ白だった。だが右のページには…
アナは息をのんだ。
「なにこれ…窓…みたい」
「さあアナ、君の手をこちらに」

本にかざした手のひらにチリチリとした感覚を感じた瞬間、アナはページに吸い込まれるような目眩を感じた。まるで体が縮んで輝く画面にゆっくりと吸い込まれていくような…。
アナは自分の外形が溶け出してインクと紙に融合するような感覚を覚えていた。そして唐突に自分自身を取り戻した。
だが、そこはもうあの本の部屋の中ではなかった。
濃厚で新鮮な空気。花粉のにおいがする。
正面の岩棚からかすかに風が吹いてくる。
そしてその向こうには、鮮やかな青空が広がっていた。
アナはぽかんと口を開いたまま立ち尽くした。すぐそばにアトラスがぼんやりと、しだいにはっきりと姿をあらわした。
そしてアナの目を覚まさせるように腕を掴んだ。
アナはアトラスの方へよろめいたがなんとか持ちこたえると、顔をあげてささやくように言った。
「こ…ここはどこ?」
「コア。僕らの家の『時代』だ」

アナは絶壁の上に立ち、見渡す限りの美しい緑の風景を見下ろしていた。なだらかな牧草地が眼下まで広がり、ところどころに小さな雑木林が見える。広くゆるやかに流れる川が草原を横切ってこの丘のすぐ足もとまで続いており、その輝く水面には緑色の宝石のように草原に覆われた土塁のような島々が頭をのぞかせている。
右手には遥か遠くに山の峰々が連なっており、青く澄んだ空には鳥が円を描いて飛んでいる。
激しいというほどではない陽の光がアナの首と肩を優しく暖める。砂漠の破壊的な暑さとは大違いだ。
「どう?」
すぐ後ろに座り込んだアトラスが尋ねた。いつのまに装着したのか、奇妙に重そうな眼鏡を通してアナを見つめている。
「コアは気に入ってもらえた?」
アナは振り返った。
「これはなんの魔法?それとも私はまだベッドで夢を見てるのかしら」
アトラスは手近にある花を摘み、アナに手渡した。その水色の花弁を鼻に近づけると、豊かな香りが鼻腔に広がった。
「君の夢はこんなにリアルなのかい?」
「まさか」
アナは笑った。
そして真剣な顔に戻ると、再び尋ねた。
「説明してもらえるかしら」
アトラスはポケットから小さな革張りの本を取り出し、しばらく眺めてからアナに手渡した。
「これも同じような本なの?」
そう尋ねながら、中に書かれているであろうドニ語の記述を確かめようと本を開いた。
「まあね。でもここに来るときに使った本とは違う点がある。この本はドニへ帰還するための本なんだ。この時代の、小さな洞窟の中に設置してある。この本に書かれているのは、ドニへの…我が家の書斎への帰還のために必要な最低限の記述だけだ。この本がなければ、僕らはこの時代に『囚われてしまう』ことになる」
「なるほど…」
アナは新たな畏敬の念に駆られて、その薄い本を見つめた。
「ところで私達は実際どこにいるの?本のページの中に入り込んでしまったわけ?それともここは実際に別の場所なの?」
アトラスはアナの頭の回転の速さに微笑んだ。
「おそらくここは…夜になると見られる星の形や、いくつかの方法で調べた限り、多分だけど…ただ間違いなく言えることは、僕らは全く別の場所にいるってことだ。おそらく、僕たちはドニとは別の宇宙にいる」
「ありえないわ」
「そう言うと思った。でも見てみなよ、アナ。この世界はドニの一室で記述された『時代』だ。あらゆるものは本の記述に正確に従っている。無限の宇宙においては、あらゆることが可能なんだ…物理的な制限においても。そしてすべての本は、どんな物理的存在や世界をも記述することができる。本が言葉と物理的実態をつなぐ架け橋だ。言葉と世界とが、本の特別な特性によって結び付けられているんだ」
「…魔法としか思えないわ」

The Book of Ti'ana © 1996 Cyan, Inc.

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