Book of Ti’ana 第4章─ジェメデット

第四章 | ジェメデット

アナは狭いトンネルで身をかがめ、井戸の底を眺めた。眼下に小さく見える円形の水面は真っ黒だった。ゆっくりと…非常にゆっくりと、なめらかなトンネルの黒い壁面に差し込む日の光が滑ってやってきた。はるか頭上の地表では、そろそろ太陽が天頂にさしかかる頃だ。
「もうすこし…」アトラスは優しく言った。「そろそろだ」
陽の光が円形の水面の縁に触れた。その瞬間水の深さが明らかになり、まっすぐな光は屈折して曲がった。
アナは美しさに息をのんだ。井戸には頑丈な木の蓋がつけられており、アトラスがそれに複雑なデザインを切り込んでいたのは知っていたが、その理由が今わかったのだ。太陽が井戸の真上に昇ったとき、そのデザインの各部から差し込んだ陽の光が水面に一つのかたちとして浮かび上がったのだ。
ショーラー。ドニの言葉で、平和という意味だ。
アナは微笑んでアトラスを振りかえった。彼の瞳孔、黒い中心にその言葉が映り込んでいる。
「何をやってるのかと思ったら…こういうことだったのね」
アナは静かに言った。
この美しさは、太陽が真上にあるほんの僅かな時間しか現れない。
「君のために作ったんだ」
「ありがとう…きれいだわ」
「そうだろ?」
二人は静寂の中その輝きを見つめた。しばらくすると光の文字はキラキラとした瞬きを残して、消えた。

アナはしばらくそのまま暗闇を見つめ、ため息をついた。
「どうしたの?」
「父のことを思い出したの」
「ああ…」
アトラスも一緒に黙り、しばらくして言った。
「よし、そろそろ戻ろうか」
アナは振り返り、狭いトンネルをかがんで戻り始めた。岩肌を螺旋状にうがって作られた階段は、アトラスがここ数週間かけて作ったものだ。それはこのほんの一瞬の魔法のためだった。
アナの中をわずかな震えが駆け抜けていった。目の前で階段をのぼるアトラスの、その髪が首元できれいに刈り込まれていることや、背中と腕の力強さ、肩の広さ…ここ数年で、彼がアナにとってどれだけ身近な存在になったかに気づいたのだ。
彼らがゆっくりと、ともに作り上げてきたこの時代と同じように。
陽の下にもどったアトラスの隣でアナは微笑んだ。あたりはどこを見ても、緑であふれている。森や草原、木々や草むら。ゆったりと蛇行する川すらも、水草で緑に覆われていた。
ただ空だけが青かった。深い、深い青色。はるか遠くには大きな白い雲がゆっくりとかたちを変えながら浮かび、真下の丘や谷に濃い影を落としている。それらは全て、砂漠しか知らないアナにとって最初は奇妙に思えたものだった。雲を見つめて何時間も過ごし、その動きにただただ魅了された。
アナはアトラスの方を振り向いた。彼は太陽のまぶしさから目を守るためにドニのスコープをかけている。ドニにいない時、彼らはみなスコープをかけていたが、アナだけはその必要がなかった。
「次は北に行ってみましょう…山脈のほうへ。湖の向こうのエリアを地図に起こさないと」
アトラスは微笑んだ。
「そうだね。それか、北東の峡谷もいいかもしれない」
アナは彼がそこに興味を引かれているのを知っていたので思わず笑った。数週間前に半島からの帰りにそこを通った時、長く休火山だった山の火山活動の兆候に気づいたからだ。
「いいわよ。あなたがそうしたいなら」
二人は歩きながら議論を続けた。どこへ行っても、この世界の物理的な特性を観察し、単語やフレーズに与えたどんな変化がこの結果をもたらしたのか、あるいはもたらすのかについて話し合った。
長い坂を登り切ると、深い緑に覆われた谷の先にキャンプが見えてきた。草に覆われた大地の一方には、黒くなめらかな岩が折り重なるように突き出ている。そのすぐ上にはゆっくりとした流れの川があり、澄んだ狭いカーテンのような滝を作り出している。その音は、すぐ後ろの森から聞こえてくる鳥の鳴き声とは対照的で、異国情緒にあふれた響きを織りなしていた。
北には山々、南には広い海が広がっている。
なんて美しい場所なのかしら。
キャンプの左側にあるアトラスのテントは、緑色の帆布でできた長細い輪郭が背景の緑に溶け込んでいるように見える。すぐとなりには鮮やかな黄色の帆布でできた小さな円形のテントがあり、倉庫として使われている。一週間ほど前まではもう一つアトラス用のテントがあったが、今は中を暮らしやすいよう整理して、アナが引っ越してきた。まだ木の床を切ってはめ込む作業が終わっていないが、屋根は完成している。アナの部屋とは仕切られているが、そこにはアトラスの一時的な実験室もつくられつつある。こことは別に、いずれ正式な実験室も坂の上に建設する予定だ。

アトラスのテントのすぐそばには帆布の日よけがかけられたテーブルがあり、四隅を小さな銅のおもりで押さえた地図が乗っていた。雨が降っても大丈夫なように薄く透明なドニのポリマー製のカバーが掛けられている。
地図は驚くほど詳細に描かれていて、シートの右側のカラーチャートで地図の複雑な色分けのパターンがひと目で分かるようになっている。未調査の部分はまだ空白のままだが、鮮やかな色でガイド線が引かれていて、地形だけではなく岩質やそれを覆う土壌、植生の種類を示していた。それらはアナいわく「土壌学上の問題」で、彼女の父が好んだ言葉だということだ。
地上からやってきたからということもあるかもしれないが、岩の種類がその土地の特徴にどのような影響を与えるかについてのアナの理解力はアトラスよりもはるかに洗練されており、本能的とすら表現できるものだった。アナはたびたび、岩のサンプルを分析しなくとも感触と色、模様でそれを言い当てた。アトラスの直観は主に岩の圧力とストレス、つまり地下構造に対してのものだった。
アナの持つ岩や鉱石についての知識や、岩をマッピングする複雑な図面の技にアトラスはまず驚き、彼女の父親やその手伝いをしていたことを知るほどに、今度はそれら知識を自分のものとした期間の短さに驚いた。数週間が経過するころにはその驚きは喜びへと変わっていき、ついに自分は一生かけて岩の魅力を共有できる相手と巡り合ったのかもしれないと思い始めた。

ほどなくしてアトラスはアナに、ドニにおけるさまざまな種類の岩石の名称、そして彼らが用いる地質学的プロセスの用語を教え始め、アナがそれらをすぐに覚えてしまうと、もうアトラスとの会話で詰まるようなことはまったくなくなった。その後しばらくしてアトラスは彼女の知性の限界を知るためにいろいろとテストを行ったが、彼女の能力に限界はないように思えた。
そして現在、二人はテーブルを挟んで立っていた。
アトラスは半分ほどが埋まった地図をしばらく眺め、その一角を指し示した。
「ここから始めよう、アナ。川が大きく曲がって滝になっている。ここからなら川の西側全体がわかる。どれくらい期間を取ろうか?二日?」
アナは頷いた。
「そうね二日、長くても三日かしら」
「よし三日だ。ここにキャンプを設置して、一日か二日の間は峡谷を調査しよう。ここには洞窟構造があるみたいだったけど、見たかい?」
アナは微笑んだ。「ええ、見たわ」
「よし、そこが終わったら一度ここに戻ってきてまた描き込もう」
「そんなに長くギルドを留守にして大丈夫?」
「何かあればここに人を寄越すさ。でも多分それはないよ。最近は暇なんだ…採鉱ギルドが新しい発掘計画を立てるまでは致し方ない。それなら時間は有効に使わないとね」
「ねえ、アトラス」
「ん?」
「明日の出発は少し遅く、午後にしてもいい?」
「井戸をまた見に行きたいんだね?いいとも。どのみち荷物をまとめるので午前中は潰れるだろうし」
アトラスらしい物言いにアナは微笑んだ。アナを甘やかすというよりむしろ、アナの好きなようにさせるためにアトラスはいつも何かしら理由を見つけるのだった。
「アトラス、それでね」
「ん?」
振り向いたアトラスはすでに別なことを考えているようだった。
「いえ、なんでも…大したことじゃないわ」

その夜は雨だった。温く激しい雨がキャビンの天井を激しく叩き、谷には重い銀色の霧が立ち込めた。
アナは土砂降りの中に駆け出すと、手を天にかざし顔を上げて体中で雨を感じた。
アトラスが自分のテントから顔を出した。
「アーナ!一体何やってるんだ?びしょ濡れじゃないか!」
アナは笑いながら振り返ると、思いついたようにダンスを始めた。
くるくると、裸足が濡れた草の上を飛ぶように駆け抜ける。
「アーナ!」
「アトラスも来て!」
アトラスはしばらくためらっていたが、そのうちしぶしぶ苦笑いしながら表に出てきた。あっという間にアナ同様びしょ濡れになり、髪の毛が漆喰のように頭に張り付いた。
「踊りましょ!」
アナはアトラスの周りをくるくる回り始めた。吊られたランタンの明かりが滝のような雨を銀色に照らし出している。
アトラスは気持ちよさに大声で叫んだ。その笑顔は、アナも初めて見るくらい生き生きとしていた。
「最高だね!」
アトラスはそう叫び、不意にアトラスを引き寄せるとまたくるくる踊り始めた。目が回ってくると立ち止まり、ふらふらと揺れながら咳き込むほど笑い続けた。
アナも笑いながらふたたび天を仰ぎ、降り注ぐ水を飲んだ。
雨!雨の奇跡だわ!

木の仕切り板の向こうで濡れた髪を拭きながら、アナはまだ降り続く雨音に耳を傾けた。いまでは優しくパラパラと屋根を叩くくらいになっている。嵐はもうじき通り過ぎるだろう。
水色の乾いたウール製の服に着替え、シンプルなで腰紐を縛る。タオルを折りたたんでベッドの端に置いて周りを見回す。床も棚も本でいっぱいだ。部屋の隅にある細い木製のテーブルには真鍮製の実験器具が置かれ、ランプの光を反射している。
アナは心からの満足を感じて息をついた。久しぶりに、本当に久しぶりに幸福を感じていた。
実際のところ、アナはこれまでそれほど一生懸命働いたこともなければ、充実感を感じたこともなかった。アトラスに「時代」を創る手伝いをしてほしいと言われた時は、自分なんかが役に立つのだろうかと思ったものだ。だが今は…
アナには一つ問題が起こっていた。
ベッドの縁に座って床を眺める。ダンスのせい?私と同じように幸せそうな彼を見たせい?あの気持ちはいっときの幻影だったのだろうか?それとも…
部屋をノックする音がして、アナは驚いて顔を上げた。そういえばいつも日誌を書き上げた後はアトラスと一時間ほど過ごすのが日課だった。
「どうぞ」
アトラスが髪を書き上げながら入ってきた。
「大丈夫だったかい?」
「全然問題ないわ。ただの雨じゃない」
アトラスはためらいがちに立ったままで、なにを言うべきか迷っているようだったが、しばらくして言った。
「ジェメデットをやらないか」
「いいわね」
アトラスはニヤリと笑うと頷いて部屋へ引き返し、ゲーム盤を持って戻ってきた。アナは立ち上がって机にスペースを開けた。
ジェメデット、またはシックスインラインと呼ばれるそれはメジャーなドニのゲームだ。タジナーの街で中国系の商人がやっていたゲームに近いが、それが二次元の盤面だったのに対してドニのそれは三次元的なグリッドで、脇に九つの正方形が配置されている。
アナが思うに、それは岩の奥深くで暮らす種族が作り上げた完璧なゲームで、その思考は平面的ではなく空間的な発想を必要としていた。
アトラスは盤面をテーブルに設置した。それは美しい手彫りの翡翠製で、繊細な蜂の巣のような形をしていて、だがしっかりとした造りだった。数千もの試合が行われたであろうにもかかわらず、一つの欠けや傷もなかった。
基礎部分は磨かれたトパーズの半球状で、盤面がなめらかに回転するようになっていた。長い銀製の爪楊枝のものは「レダンティー」と呼ばれており、駒を目的の場所へ滑らせるのに使用する。その駒はシンプルな磨かれた卵型をしており、緑色のトルマリンと暗赤色のアルマンディンでできていた。
アトラスはベルベットの仕切り箱に収まっているレダンティーと「石」を取り出して盤面に配置し始めた。
アナは微笑んだ。このセットを始めてみたときからすっかり虜になってしまっていたのだ。
机に向かって座る。いつもアナが先手だった。最初の石を盤面の中央に移動させる。ここからならどんな状況にも対応できる。
一時間ほどの対戦のあいだ、二人はただ無言でそれぞれが石の配置に集中した。いつしか雨音は止み、夜鳥の鳴き声だけが木々にこだまする中、ランタンの灯りのもとでゲームは進んでいった。
ついにアナは自分の負けを悟った。アトラスが左隅に石を置けば、六つの石が並ぶことを止められない。
アナは顔をあげた。ギブアップすべきか?アトラスが気づいていなければまだチャンスはある。
「どうかしたかい?」
アトラスが静かに尋ねる。アナは目を伏せた。
「いえ、疲れただけ」
「そうなのか?」
アナはひとつ頷いた。今日は最高に良い日だったのに、なんで台無しにしちゃうのかしら。
「それじゃ終わりにして片付けようか」
「いいえ」
アナは決心したように微笑んだ。
「片付けるのは朝にしましょう。ところで、どうやって私を負かしたのか教えてほしいんだけど」
アトラスはニヤッと笑って言った。
「経験さ」
この時、二人の年齢にはそれほど差はないように思えた。
地上人の尺度でいえば、アトラスは老いているといえる。アナの父とおなじくらいの年齢なのだ。だがドニの尺度では、彼は若者だ。実際ドニ人は二百年以上生きるのだ。
それがこの気持ちを話すことをためらう理由だろうか?
「それじゃ行くよ。おやすみ、アナ。いい夢を」
「あなたもね」
アトラスが微笑み部屋を出ていってからも、アナはドアをじっと見つめ、口にしたくて出せなかった言葉を考えていた。外ではふたたび夜鳥の鳴き声が夜の峡谷に響いていた。

峡谷は周囲の大地に対して深く切り込む形状をしており、川によって形作られたものではなく、もっと古い時代の地殻変動によるものと思われた。両側の斜面はむき出しの岩で、その起伏のパターンは長い間の風雨により柔らかい部分が激しく浸食され、硬い部分だけが残ることで形成されていた。谷の終わる場所では、特に大きな岩棚がせり出しており、その影の部分はまるで洞窟のようになっていた。
二人はそこから調査を始めることにした。
アナはアトラスの目的のものがなにかわかっていた。そしてそれが見つかるのはそう時間がかからないだろうことも。
「アーナ!こっち来て見てみなよ!」
アナはアトラスがかがみ込んでいる岩棚の影の奥へと向かい、覗き込んだ。
「どうだい?」
アトラスは得意げにアナを見上げた。
古く摩耗しているがそれが何かは一目瞭然だった。火山管の口、つまり火山の通気孔だ。はるか昔に高圧のガスが出口を求めて岩を突き抜けた証だった。
ここ二日、二人はこの近くにあったはずの火山の痕跡を探していたのだ。この地域に火山性堆積物が多く存在していることから、その存在はほぼ確信していたのだが、ついに最初の通気孔を発見したというわけだ。
見た感じ、この火山は古く、数百年は休眠しているように思われる。
「私達は安定した世界を記述したはずじゃなかった?」
アトラスは微笑んだ。
「そうだね。でもどんな安定した世界も、それを形づくるものは必要だ。火山は時代の初期形成に役割を果たしたんだろう。最高の世界でもそれは必要なことなんだ!」
「で、その火山はどこにあるの?」
アトラスは立ち上がって振り向き、まっすぐ北を指さした。
「あっちだと思う」
「行って探してみたい?」
アトラスは肩をすくめた。
「君が良ければ」
アナは笑った。
「へんなところ気にするのね、火山よ。私達の最初の火山よ!」
「ハハ、うん、よし行こう!予想が正しければ、そんなに遠くないはずだ」

火山のカルデラはまだその姿を残していたが、時間と風雨によりかなり摩耗しており、その斜面にも底面にも木々が生い茂っている。だが土が薄く堆積した裂け目や噴気口が、地下深くにあるものの存在を示していた。
思っていたよりもずいぶん古い。数千年どころか数百万年前のもののようだ。
アナが理解するのに少し時間がかかったのはこの部分だ。接続してきたこの時代は私達によって創造されたものではなくすでに存在していて、この世界の形成は数ヶ月ではなく数百万年の時間がかかっている。
アトラスはわかりやすいように説明してくれた。
「いわゆる『時代』は、すでに存在するか存在していた、または存在するだろう世界だ。時間や空間、そういったものとは関係なく、記述に沿った世界との間に接続が作られるんだ」
先日のゲームの後「ジェメデット」と名付けたこの時代もまた、すでに存在するか、存在していたか、いつか存在する世界なのだ。それがいつで、どこなのか、二人には知るべくもないが。
とはいえ、それが実際的な問題を引き起こすわけではない。だがアナは不思議に思うのだった。私達は宇宙のどこにいるのだろう。そして「いつ」に?宇宙の始まりに近い時にいるのだろうか?それとも終わり?
そのことに謙虚に思いを馳せたアナは、かつて父が世界を作った存在…神を信じていた理由が理解できた。「記述」がこれらの世界への接続を作り出す、その大いなる技術の繊細さや複雑さを見てきたことで、その接続先、オリジナルであるこの世界もまた果てしない繊細さ、複雑さにより成り立っているということに気づき、畏敬を感じたのだ。

ただしアナ個人としては、目に見えない作用がこれらすべてを作り上げたとは信じられなかった。この生命の複雑さと多様さ…それはアナにとっては全く考えられないことだった。
だがアトラスはアナとはまた違ったスタンスを取っていた。彼はそういった作用の結果を理解することが、そもそもそれらがなぜ存在するのかを理解するための鍵と捉え、より合理的かつ科学的なアプローチを主張した。
アトラスは木がまばらに生える斜面を岩を避けながら下っていき、大きめの噴気口を見つけてそのそばで立ち止まった。そして傾いた噴気口に胸を押し当てるように身を乗り出して暗闇の中を覗き込んだ。
そのまましばらくじっと中を見つめた後、ドニのゴーグルを外して振り向いた。
「中に入ってみようか」
アナは微笑んだ。
「いいわね。でもキャンプからロープを持ってこないと」
「ランプも必要だな。後は…」
「あなたのノートもね」
互いに考えていることは同じようだった。いよいよ火山の探検を始める時だ。

二人がキャンプに戻ったのは、当初の予定より三日も過ぎてからになった。その間にドニからのメッセージが届いていた。それは地図を広げたテーブルの上に置かれ、濃紺の防水ラッピングがなされていた。
アナが荷解きをしている間にアトラスは手紙の封を切ってメッセージを読んだ。緊急の知らせではないことをアトラスは知っていた。もしそうだったらこんなふうに置きっぱなしにせず、アトラスを探して追ってきたはずだからだ。
アトラスは手紙を広げ、眼鏡のレンズを通してそれを細かく読んだ。
手紙は古い友人のケドリからで、アトラスが彼と最後に夕食をともにした際に、ケドリに対してなげかけた質問について心配している内容だった。
アトラスは素早く目を通すと笑みを浮かべ、手紙をチュニックのポケットにしまい込んだ。
「なにか重要な知らせだった?」
そばにやってきたアナが尋ねた。
「いや。でも帰らなきゃいけなくなった」
「それじゃ荷造りしなきゃ」
アトラスは首を振った。
「その必要はないよ。ちょっと一、二時間くらいで終わる用事だからね。今夜行ってくるから、ここで待ってて構わないよ。できるだけ早く戻ってくるようにする」
アナは笑って言った。
「ドニに戻る前に、お風呂に入っていったほうがいいわよ」
「風呂?…僕が臭いといいたいのかな、ティアナ?」
「そのとおりよ、硫黄そのもの!そうね…ベルゼブブみたい!」
アトラスは笑った。カルデラの底の洞窟で、アナから地表に伝わる神話についてさまざまなことを教わったばかりだ。その中にはいろいろな宗教で、地下深くに棲むとされる者たち、悪魔についても含まれていた。
「彼らが本当に地下に何があるのか知ってたら、きっと驚いたでしょうね」
話を聞いたアトラスはアナに新しい名前をつけたのだった。
ティアナ。ドニ語で「語り部ストーリーテラー」。
地表での名前と音も似ていて、ぴったりだった。
「ドニに戻る前になにか食事を用意しましょうか?」
「それよりこの標本を分類するのを手伝ってもらえるかな」
「任せて。あなたがノートを書き上げられるように検査までやっちゃうわ」

アトラスはテントの中を見渡して、すべてがきちんと整理されていることを確認した。ノートはベッド脇の小さなテーブルの上に広げてあり、最後の書き込みはまだインクが乾いていない。
そろそろドニに戻る時間だ。
アナは自室にいる。おやすみを言っておこうと、アトラスはそちらへ向かった。
部屋の前で立ち止まり、小さくノックする。いつもならすぐ入るように声が返ってくるのだが、何も返事がない。少しドアを開けて中を覗くと、彼女の机の前に姿はなかった。
「ティアナ?どこだい?」
耳を澄ますと、薄い木製の仕切りの向こうからアナの柔らかな鼻息が聞こえた。
静かに部屋に滑り込んだアトラスは音を立てないように近づいてカーテンをめくった。アナは寝床の横に寝そべって目を閉じ、平和そうに眠り込んでいるようだった。峡谷からの帰り道は長く、きっと疲れ切ったのだろう…アトラスはアナのそばにかがみ込むと、その寝顔を見つめた。その顔はアトラスの知る、肌が青白く顔が長い、強いが儚い印象のドニの女性たちとは違っていた。
もう二ヶ月以上前のことになるが、彼らはキャンプの北にある山へ最初の、そして一度だけの旅をした。
道中、アナは後で調べるためにさまざまな野生の花を収集していたが、雪に覆われた斜面(アナははじめて雪というものを見たらしく、触れたり歩いたりしたことがないとのことだった)に差し掛かったとき、彼女はポケットから花を取り出し、花びらを雪の上に散らしながら歩いた。アトラスが彼女に何をやっているのかと尋ねると、彼女は肩をすくめて言ったものだ。
「必要なことなの」
そして散らばった花びらを指差して、アトラスに見るように求めた。
目を閉じてもはっきりと思い出せる。真っ白な雪と対照的な鮮やかな花びらの色と形…まるで生と死のようだ。
あの時アトラスは決心し、それからずっとその決心を再確認してきたのだった。花びらから目を上げたときの彼女の、太陽のように輝く顔を見たその気持を肯定することを。
アトラスは閉じた目を開き、今再びアナの寝顔を見つめた。太陽のような輝きは眠りに顔をひそめているが、やはり美しかった。これまでに出会った誰よりも。最初こそ気になったものの、今では彼女のドニ人との顔つきの違いは気にならなくなっていた。
手を伸ばして触れないように寝顔をなぞる。優しい気持ちがアトラスの中に広がり、その手が震えた。アトラスは自分の想いの強さに驚いた。それはまるで滝から降り注ぐ水のように圧倒的だった。
アトラスは一人頷くと立ち上がった。
ドニへ戻る時だ。そしてこのことを話さなければ。父カーリスに。

「このことを半ば予期していなかったとは言わないが…もう少し時期を見てくれるだろうと思っていたんだがな」
「申し訳ありません、父さん」
「まあお前の言う通りだとして、アトラス、おまえはこれをきちんと考えた上でのことか?このことがドニに与える影響をとことん考えたのか?彼女は外から来た者だ。地上の住人なんだぞ。そしてお前はドニ人だ。ドニ人であり、ギルドマスターであり、評議会議員なんだぞ。このような結婚など聞いたことがない」
「かもしれない。だがそれを妨げる法もないはずだ」
アトラスはチュニックのポケットから手紙を取り出して、父の前に置いた。
「マスター・ケドリに確認したんです。彼は法律のエキスパートだ」
カーリスは手紙を手にとって取り出した。しばらく黙ってそれを読んだ後、顔をあげた。
「年の差だってあるだろう、アトラス?今でこそお前のほうが年長だが、いつまでもそうというわけではないぞ。お前の寿命は彼女の三倍はあるんだ。お前がまだまだ壮健でも、彼女は老女になってしまうんだ。そのことを考えたのか?」
「考えたさ。でも彼女なしには…彼女が隣にいない人生なんて、それこそ死んでいるようなものだ」
「それは私が反対しても変わらないか?」
アトラスはじっとカーリスを見つめた。
カーリスは立ち上がると、机を回ってアトラスのそばに歩み寄った。
「私のアドバイスなど聞きそうにないな。だが祝福はしよう。そっちは受け入れてもらえるか」
「ありがとう、父さん!」
アトラスはカーリスの手を握った。
「父さんもきっと彼女を誇らしく思うよ、約束する!」

アトラスはキャンプ地の上にある洞窟の中へ接続して戻ってきた。洞窟を外は何も変わったところはないようだ。月の光がキャンプを優しく照らし、テントやキャビンの向こうには滝が銀色の薄膜のように輝いている。その水音がアトラスの心を落ち着かせた。
アトラスは口笛を拭きながら木々の間を下っていった。昔、母が歌ってくれたドニの古い歌だ。アトラスの目はキャビンに吸い寄せられた。あそこでティアナが眠っている。愛する人が。
「間違ってない」
アトラスは静かにつぶやいた。
肩に光が投げかけられるのを感じて振り向くと、そこにはアナが立っていた。
いたずらっぽく笑っている。
「なにが間違ってないの?」
今こそ話す時だ。だがアトラスは恐れていた。アトラスはつばを飲み込んだ。
この恐れは自然なことだ、これは乗り越えるべきものだ…。
「君と僕のことだ」
アトラスは答えて、アナの手を取った。
「それって…どういう意味?」
「君と結婚したい、という意味だ」
アナの目がゆっくりと見開かれ、混乱した様子でじっとアトラスを見つめた。
「どうかな…僕と結婚してくれないか、ティアナ?」
「するわ」
アナはとても静かに、柔らかく、アトラスの想像していたとおりに答えた。
「してくれる?」
アナは頷いた。かすかな微笑みが唇に浮かんでいる。
「してくれるんだね!」
アトラスは叫び、アナを引き寄せ、はじめてその腕に抱きしめた。
腕の長さよりも間近にアナの顔がある、その光景にアトラスは落ち着きを感じた。
「僕はいい夫になるよ、ティアナ。でも君にも約束してほしいんだ」
「約束って、何を?」
「あらゆる意味で僕のパートナーになってほしい。助手であり仲間であり、いつも隣りにいてくれる人に。僕のやること全てにおいて」
アナの顔に、ゆっくりと笑みが戻ってきた。そして、ゆっくりとアトラスにキスをした。
「約束する」

ヴェオヴィスは嵐のように部屋に飛び込んだ。後ろ手で扉を荒々しく閉じると、机に置かれたインク壺を掴み部屋の反対側に向かって投げつけた。インク壺は粉々に砕けた。
「絶対に駄目だ!」
誰もいない部屋で空を睨みつけ、叫んだ。
「俺の目の黒いうちは、絶対に!」
父ラケリがその凶報を知らせてきたのは一時間前のことだった。アトラスが婚約したというのだ。正直、ヴェオヴィスは最初そのニュースに興味を引かれなかった。アトラスの浮いた話など聞いたことすらなかったからだ。その後で突然理解した。あの少女だ!地上人の!
音も荒く部屋を歩き、椅子に勢いよく座り親指の爪を噛む。
「絶対に駄目だ!」
再びつぶやいたその言葉は、彼自身から漏れ出す毒のようだった。
ラケリは五元老がどのようにこの件を取り扱ったかを、先例が記された書類を広げて説明した。今回もまたケドリの差し金だ。あの反逆者め!アトラスは全評議員の前にて彼らの祝福を受ける必要があるが、ただそれだけであり、しかもそれは形式的なものだった。
そうとされていた。過去の先例では。
ヴェオヴィスは長い息をついて首をもたげると、先ほど投げて砕いたガラスのかけらを、まるで何故そうなっているかわからないかのように見つめ、そして身震いした。
絶対に駄目だ。

大評議会議場の中央で、アトラスは五元老に向かい合って立った。リラ卿が正式な訴状を読み上げる。あとは全評議員がこれを認可するだけだ。
リラ卿はアトラスをしばらく見つめたのち、その向こうの評議員席を見渡して尋ねた。
「皆、これを認めるや否や?」
一斉に「認める」の合唱が巻き起こった。幾人かはしぶしぶといった様子で、それ以外は熱狂的に。これが六千年続く認可のやり方だった。
リラ卿は微笑み、再び尋ねた。
「異議を唱える者はありや?」
これは形式的なもので、通常声はあがらない。だが今日は違った。
「異議あり」
リラはすでに書面に目を落として、アトラスへの祝辞を考えているところだった。鋭い声を上げたのはヴェオヴィスだ。アトラスの背後、二スパンも離れていない。
「今なんと、ギルドマスター・ヴェオヴィス?」
ヴェオヴィスは立ち上がり、繰り返した。
「異議あり、と申し上げました」
リラは目を瞬いた。五元老は皆前かがみになり、ヴェオヴィスを見つめた。このようなことは前代未聞だ。
「理由を聞かせてもらえるかね、マスター・ヴェオヴィス」
ヴェオヴィスの顔はまるで仮面のように無表情だ。
「理由はありません。ただ反対なのです」
そして、それで終わりとでも言わんばかりに腰をおろした。
評議会の評決は全会一致でなければならない。
リラはアトラスに目を移した。その若者はうつむき、表情は読み取れないが、その体には先程までと違ってこわばっていた。
「マスター・アトラス…その…」
アトラスは顔を上げた。その青い目は石版のように輝きを失っていた。
「わかっております、リラ卿。評議会は私の要求を却下したということですね」
リラは残念そうに頷いた。
「そうなるな」
「ではこれ以上無理は申し上げません、マイロード」
アトラスは五元老それぞれにお辞儀をすると、踵を返して議場を出ていった。ヴェオヴィスのそばを通り過ぎる時も、その背筋は真っ直ぐに伸びていた。

「アトラス!開けてちょうだい」
タセラは部屋の前で扉に向かって呼びかけた。その後ろの廊下の暗がりにはカーリスも心配そうに佇んでいる。
部屋の中から返事はない。タセラはカーリスに振り向くと、尋ねた。
「あなた、なぜ評議会で何も言わなかったの?」
「言ったとしても」カーリスは静かに答えた。「なにも変わらなかっただろう」
「それじゃどうしようもないの?たった一人が駄目といえば駄目になってしまうの?」
その時、扉の掛けがねが外される音がして、扉がわずかに開いた。
「すまない、母さん」
暗い部屋の中から声だけが聞こえてきた。
「眠っていたんだ」
「議会で何があったか聞いたわ。やるべきことを話し合わなきゃ」
「できることはなにもないよ。評議会はすでに答えを出した」
ヴェオヴィスの発言。あのとき、誰もが黙っていた。ヴェオヴィスだけのせいではない。あれこそが評議会の真の意思だったのだ。
「ばかばかしい!」
タセラは怒りながらアトラスを押しのけると机のランプに火をともした。薄明かりの中のアトラスはやつれた顔で、まるで病み上がりのように見えた。だがなにがあろうと、今でも確かに彼はタセラの育てた強い男だった。
「私は知っているわ。あなたは戦う男よ。ティアナがあなたのことをどれほど想っているかも知ってる。このままこの決定に屈するの?それとも戦うの?」
「戦うだって?どうやって?何を相手に?ヴェオヴィスの考えを変えさせる?無理だ。彼も評議会もそれを許さなかった!説得すら…」
「お願いするのよ」
「お願い?」
「ティアナなら、きっとヴェオヴィス卿のところへ行って考えを変えてくれるよう懇願するわ。ヴェオヴィスに跪けと言われればそうしなさい。ただ受け入れることだけはしないで」
「跪けだって?」
アトラスは信じられないというふうにタセラを見つめた。
「そうよ、アトラス。あなたが大切なもの何?プライド?それとも未来の幸せ?」
「懇願しろっていうのか、僕に?」
タセラは首を振った。
「あなたが言ったのよ、ヴェオヴィスには強制も説得も効かないと。他にどんな道があるの?」
「アトラスは正しいわ」
二人が振り向くと、ドアのそばにアナが立っていた。
「ティアナ、僕は…」
しかしアナは手を上げて言葉を押し止めた。
「何があったのかはわかってる。お父様から聞いたわ」
「私の言うとおりよね、アーナ?アトラスはヴェオヴィスに会いに行くべきだわ」
「そうかもしれません」
アナは頷いてから、アトラスを愛しそうに見つめた。
「あなたの妻になれることをどれほど誇らしく思っているか、あなたは知ってるわよね。ドニ中の女性の誰より誇らしく思ってる。でもね、ヴェオヴィスの前で跪くことはしないで。たとえ私達が離ればなれにならないとしても。それは冒涜だわ。私は耐えられない。きっとなにか別の方法があるはず…」
アトラスは顔を上げてアナを見た。しばらくじっと見つめた後、頷いた。
「もういいさ、それなら彼に会いに行く。あまり希望は持てないけどね」

ヴェオヴィスは彼の父、ラケリ卿の書斎で会うことを受け入れた。ラケリ今日は黙って同席し、話の内容は外に持ち出さないことを請け負った。
「それで、用件はなんだ?ギルドマン」
ヴェオヴィスはアトラスの前、六歩ほど離れた位置に向かい合って、両手を後ろで固く結んだ形で立っていた。
アトラスは仮面のように冷たい視線をまっすぐ見返した。
「今朝のあなたの反対についての説明をいただきたい」
「お断りする」
「君は彼女が嫌いなんだろう?」
ヴェオヴィスは肩をすくめた。
「言ったように、」
「理由は説明しない」
ヴェオヴィスは頷いた。
「シャフトでの会話を覚えているか?」
「何の話だ」
「思い出せ。何があったかを…僕が君の命を救った後に」
ヴェオヴィスは目を瞬き、長い息を吐いた。
「俺は君の行動に感謝した。それがなんだ?この話になんの関係がある?」
「君は僕に約束した。忘れたのか?君はこう言った。君の力が及ぶ限り、僕に望むものがあれば何でも─何でも、だ─それを叶えると」
ヴェオヴィスは石像のように立ち尽くし、まるで火打ち石のような眼でアトラスを睨みつけた。
「覚えているか?」
「覚えている」
「では約束を守っていただこう、ヴェオヴィス卿。ティアナとの結婚の許しをいただきたい。全評議会の前で」
ヴェオヴィスは長い間黙っていたが、ついに振り返って父を見た。ラケリはしばらく息子を見つめ返していたが、大きな悲しみを目にたたえて頷いた。
ヴェオヴィスはアトラスに向き直った。
「俺は言葉をひるがえす男じゃない。だからお前の願いを叶えよう…カーリスの息子、アトラス。だが今日この日から、もはやお前と口を交わすことはない。われわれ二人の間にあった関係は全て、終わりだ。約束は果たされた。これで貸し借りはなしだ。わかったか」
アトラスは無表情に見つめ返した。
「わかった。感謝する」
「感謝だと?」
ヴェオヴィスは苦々しそうに笑った。
「消えろ。お前の顔にはうんざりだ」

第五章へつづく

The Book of Ti'ana © 1996 Cyan, Inc.

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