Book of Ti’ana 第4章─ジェメデット

第四章 | ジェメデット

アナは狭いトンネルで身をかがめ、井戸の底を眺めた。眼下に小さく見える円形の水面は真っ黒だった。ゆっくりと…非常にゆっくりと、なめらかなトンネルの黒い壁面に差し込む日の光が滑ってやってきた。はるか頭上の地表では、そろそろ太陽が天頂にさしかかる頃だ。
「もうすこし…」アトラスは優しく言った。「そろそろだ」
陽の光が円形の水面の縁に触れた。その瞬間水の深さが明らかになり、まっすぐな光は屈折して曲がった。
アナは美しさに息をのんだ。井戸には頑丈な木の蓋がつけられており、アトラスがそれに複雑なデザインを切り込んでいたのは知っていたが、その理由が今わかったのだ。太陽が井戸の真上に昇ったとき、そのデザインの各部から差し込んだ陽の光が水面に一つのかたちとして浮かび上がったのだ。
ショーラー。ドニの言葉で、平和という意味だ。
アナは微笑んでアトラスを振りかえった。彼の瞳孔、黒い中心にその言葉が映り込んでいる。
「何をやってるのかと思ったら…こういうことだったのね」
アナは静かに言った。
この美しさは、太陽が真上にあるほんの僅かな時間しか現れない。
「君のために作ったんだ」
「ありがとう…きれいだわ」
「そうだろ?」
二人は静寂の中その輝きを見つめた。しばらくすると光の文字はキラキラとした瞬きを残して、消えた。

アナはしばらくそのまま暗闇を見つめ、ため息をついた。
「どうしたの?」
「父のことを思い出したの」
「ああ…」
アトラスも一緒に黙り、しばらくして言った。
「よし、そろそろ戻ろうか」
アナは振り返り、狭いトンネルをかがんで戻り始めた。岩肌を螺旋状にうがって作られた階段は、アトラスがここ数週間かけて作ったものだ。それはこのほんの一瞬の魔法のためだった。
アナの中をわずかな震えが駆け抜けていった。目の前で階段をのぼるアトラスの、その髪が首元できれいに刈り込まれていることや、背中と腕の力強さ、肩の広さ…ここ数年で、彼がアナにとってどれだけ身近な存在になったかに気づいたのだ。
彼らがゆっくりと、ともに作り上げてきたこの時代と同じように。
陽の下にもどったアトラスの隣でアナは微笑んだ。あたりはどこを見ても、緑であふれている。森や草原、木々や草むら。ゆったりと蛇行する川すらも、水草で緑に覆われていた。
ただ空だけが青かった。深い、深い青色。はるか遠くには大きな白い雲がゆっくりとかたちを変えながら浮かび、真下の丘や谷に濃い影を落としている。それらは全て、砂漠しか知らないアナにとって最初は奇妙に思えたものだった。雲を見つめて何時間も過ごし、その動きにただただ魅了された。
アナはアトラスの方を振り向いた。彼は太陽のまぶしさから目を守るためにドニのスコープをかけている。ドニにいない時、彼らはみなスコープをかけていたが、アナだけはその必要がなかった。
「次は北に行ってみましょう…山脈のほうへ。湖の向こうのエリアを地図に起こさないと」
アトラスは微笑んだ。
「そうだね。それか、北東の峡谷もいいかもしれない」
アナは彼がそこに興味を引かれているのを知っていたので思わず笑った。数週間前に半島からの帰りにそこを通った時、長く休火山だった山の火山活動の兆候に気づいたからだ。
「いいわよ。あなたがそうしたいなら」
二人は歩きながら議論を続けた。どこへ行っても、この世界の物理的な特性を観察し、単語やフレーズに与えたどんな変化がこの結果をもたらしたのか、あるいはもたらすのかについて話し合った。
長い坂を登り切ると、深い緑に覆われた谷の先にキャンプが見えてきた。草に覆われた大地の一方には、黒くなめらかな岩が折り重なるように突き出ている。そのすぐ上にはゆっくりとした流れの川があり、澄んだ狭いカーテンのような滝を作り出している。その音は、すぐ後ろの森から聞こえてくる鳥の鳴き声とは対照的で、異国情緒にあふれた響きを織りなしていた。
北には山々、南には広い海が広がっている。
なんて美しい場所なのかしら。
キャンプの左側にあるアトラスのテントは、緑色の帆布でできた長細い輪郭が背景の緑に溶け込んでいるように見える。すぐとなりには鮮やかな黄色の帆布でできた小さな円形のテントがあり、倉庫として使われている。一週間ほど前まではもう一つアトラス用のテントがあったが、今は中を暮らしやすいよう整理して、アナが引っ越してきた。まだ木の床を切ってはめ込む作業が終わっていないが、屋根は完成している。アナの部屋とは仕切られているが、そこにはアトラスの一時的な実験室もつくられつつある。こことは別に、いずれ正式な実験室も坂の上に建設する予定だ。

アトラスのテントのすぐそばには帆布の日よけがかけられたテーブルがあり、四隅を小さな銅のおもりで押さえた地図が乗っていた。雨が降っても大丈夫なように薄く透明なドニのポリマー製のカバーが掛けられている。
地図は驚くほど詳細に描かれていて、シートの右側のカラーチャートで地図の複雑な色分けのパターンがひと目で分かるようになっている。未調査の部分はまだ空白のままだが、鮮やかな色でガイド線が引かれていて、地形だけではなく岩質やそれを覆う土壌、植生の種類を示していた。それらはアナいわく「土壌学上の問題」で、彼女の父が好んだ言葉だということだ。
地上からやってきたからということもあるかもしれないが、岩の種類がその土地の特徴にどのような影響を与えるかについてのアナの理解力はアトラスよりもはるかに洗練されており、本能的とすら表現できるものだった。アナはたびたび、岩のサンプルを分析しなくとも感触と色、模様でそれを言い当てた。アトラスの直観は主に岩の圧力とストレス、つまり地下構造に対してのものだった。
アナの持つ岩や鉱石についての知識や、岩をマッピングする複雑な図面の技にアトラスはまず驚き、彼女の父親やその手伝いをしていたことを知るほどに、今度はそれら知識を自分のものとした期間の短さに驚いた。数週間が経過するころにはその驚きは喜びへと変わっていき、ついに自分は一生かけて岩の魅力を共有できる相手と巡り合ったのかもしれないと思い始めた。

ほどなくしてアトラスはアナに、ドニにおけるさまざまな種類の岩石の名称、そして彼らが用いる地質学的プロセスの用語を教え始め、アナがそれらをすぐに覚えてしまうと、もうアトラスとの会話で詰まるようなことはまったくなくなった。その後しばらくしてアトラスは彼女の知性の限界を知るためにいろいろとテストを行ったが、彼女の能力に限界はないように思えた。
そして現在、二人はテーブルを挟んで立っていた。
アトラスは半分ほどが埋まった地図をしばらく眺め、その一角を指し示した。
「ここから始めよう、アナ。川が大きく曲がって滝になっている。ここからなら川の西側全体がわかる。どれくらい期間を取ろうか?二日?」
アナは頷いた。
「そうね二日、長くても三日かしら」
「よし三日だ。ここにキャンプを設置して、一日か二日の間は峡谷を調査しよう。ここには洞窟構造があるみたいだったけど、見たかい?」
アナは微笑んだ。「ええ、見たわ」
「よし、そこが終わったら一度ここに戻ってきてまた描き込もう」
「そんなに長くギルドを留守にして大丈夫?」
「何かあればここに人を寄越すさ。でも多分それはないよ。最近は暇なんだ…採鉱ギルドが新しい発掘計画を立てるまでは致し方ない。それなら時間は有効に使わないとね」
「ねえ、アトラス」
「ん?」
「明日の出発は少し遅く、午後にしてもいい?」
「井戸をまた見に行きたいんだね?いいとも。どのみち荷物をまとめるので午前中は潰れるだろうし」
アトラスらしい物言いにアナは微笑んだ。アナを甘やかすというよりむしろ、アナの好きなようにさせるためにアトラスはいつも何かしら理由を見つけるのだった。
「アトラス、それでね」
「ん?」
振り向いたアトラスはすでに別なことを考えているようだった。
「いえ、なんでも…大したことじゃないわ」

その夜は雨だった。温く激しい雨がキャビンの天井を激しく叩き、谷には重い銀色の霧が立ち込めた。
アナは土砂降りの中に駆け出すと、手を天にかざし顔を上げて体中で雨を感じた。
アトラスが自分のテントから顔を出した。
「アーナ!一体何やってるんだ?びしょ濡れじゃないか!」
アナは笑いながら振り返ると、思いついたようにダンスを始めた。
くるくると、裸足が濡れた草の上を飛ぶように駆け抜ける。
「アーナ!」
「アトラスも来て!」
アトラスはしばらくためらっていたが、そのうちしぶしぶ苦笑いしながら表に出てきた。あっという間にアナ同様びしょ濡れになり、髪の毛が漆喰のように頭に張り付いた。
「踊りましょ!」
アナはアトラスの周りをくるくる回り始めた。吊られたランタンの明かりが滝のような雨を銀色に照らし出している。
アトラスは気持ちよさに大声で叫んだ。その笑顔は、アナも初めて見るくらい生き生きとしていた。
「最高だね!」
アトラスはそう叫び、不意にアトラスを引き寄せるとまたくるくる踊り始めた。目が回ってくると立ち止まり、ふらふらと揺れながら咳き込むほど笑い続けた。
アナも笑いながらふたたび天を仰ぎ、降り注ぐ水を飲んだ。
雨!雨の奇跡だわ!

木の仕切り板の向こうで濡れた髪を拭きながら、アナはまだ降り続く雨音に耳を傾けた。いまでは優しくパラパラと屋根を叩くくらいになっている。嵐はもうじき通り過ぎるだろう。
水色の乾いたウール製の服に着替え、シンプルなで腰紐を縛る。タオルを折りたたんでベッドの端に置いて周りを見回す。床も棚も本でいっぱいだ。部屋の隅にある細い木製のテーブルには真鍮製の実験器具が置かれ、ランプの光を反射している。
アナは心からの満足を感じて息をついた。久しぶりに、本当に久しぶりに幸福を感じていた。
実際のところ、アナはこれまでそれほど一生懸命働いたこともなければ、充実感を感じたこともなかった。アトラスに「時代」を創る手伝いをしてほしいと言われた時は、自分なんかが役に立つのだろうかと思ったものだ。だが今は…

The Book of Ti'ana © 1996 Cyan, Inc.

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