Book of Ti’ana 第5章─賢者

第五章|賢者

議事堂の前庭は、ギルドマンたちでひしめいていた。元老、グランドマスターとその助手たち、そしてそれ以外の、より下位の評議員たち…皆がこれから始まる大議事堂での討論を今か今かと待っているのだ。
過去にないような重要な議題の討論を前に、場は喧騒に包まれていた。立ち並ぶ絢爛な大理石の柱と柱のあいだではマントを着込んだ議員たちが、そこかしこでグループを作り、今回の提議に関する意見を交わしあっている。その中央の、比較的大きな集団の中にアトラスはいた。今回の提議は彼らによるものなのだ。
アトラスが評議会に戻って十五年が経つ。今やアトラスは、議会における進歩派の非公式なリーダーとして認められ、元老の政策決定においてもたびたび助言を求められるようになっていた。だが今日、アトラスは落ち着かない気分だった。
「なにか知らせはあったか?」
化学ギルドの友人、オーレンがやってきて輪に加わると、尋ねた。
「まだなにも」
「彼女なら大丈夫さ」
アトラスの肩を抱えながら、別な友人…こちらは立法ギルドのペンジュールが答えた。
「そうだといいが」
とはいうものの、アトラスは明らかにそわそわしている。
「それで、今日はどうする?」
派閥の中核を担う十数人のマスターたちの顔を眺めて、オーレンが尋ねた。
「だれかいいアイデアはないか?」
皆は思わず笑った。オーレンは化学者だけあって、いつもはっきりした答えを欲しがる。
「どちらにせよ、もう時間はないぞ」
この中では一番年長のハミールはメッセンジャーギルドのグランドマスターだ。白く長いあごひげを引っ張りながら続けた。「我らが友人の弁舌に期待するとしよう」
オーレンはアトラスを見つめ、ニヤリと笑った。
「じゃ、俺たちの負けだな。今日のマスター・アトラスは一つの事以外考えられそうにないご様子だ」
アトラスは微笑んだ。
「心配するなよ、オーレン。うまくやるさ。話し始めれば気も紛れる」
それを聞いて皆は頷いた。この提議は皆にとって重要なことではあるが、ティアナの無事はそれ以上に大事だった。
実際この計画はティアナなくして成立しなかった。彼らをシティ下層に連れていき、みなの状況を監督していたのも彼女だったからだ。ティアナはこの計画の中心であり、発案者だった。
「あいつらはヴェオヴィスが対抗弁論に立つと言っているが」
ペンジュールは離れた場所に集まる、ヴェオヴィスを中心とした派閥集団を眺めながら言った。
「それじゃ今日の討論は長引きそうだな」
司書ギルドのテキスがめんどくさそうに答える。
「まちがいなく面倒だ」
ペンジュールが付け加え、全員が笑った。
「かもね。でも彼の意見はわかっている。彼はこの小さな変化がより大きな変化のはじまりだと恐れている。そしてそれは彼だけじゃない。僕らの任務はその恐怖をしずめることだ…ヴェオヴィスではなく、その周りの人たちのだ。彼らは僕らが話す言葉の、真の意味がきっとわかるはずだ。それで十分。そしてそれこそが勝利への道なんだ」
それを聞いて皆が頷く。
「でも、もし負けたら?」オーレンが尋ねた。
アトラスは微笑んで答えた。
「そしたらシティ下層を救う別な方法を考えるさ。ティアナはいつも言っていた。『リーコーを叱る方法は一つだけじゃない』ってね」

静まり返った議場で、ヴェオヴィスは自分の席から立ち上がって振り返ると、集まった議員たちに向かって話し始めた。
「皆様がた。ご承知の通り、私の役目はこの軽率な計画を受け入れないように促すことです。多くを申し上げる必要はないでしょう…シティを統治する現在のシステムは五千年以上にわたって機能しており、そしてそれが今現在も十分うまく機能していると感じている方もいらっしゃいましょう」
ヴェオヴィスはそこで一旦言葉を切り、アトラスを一瞥した。
「ただそこには問題も存在します。それはドニを導くべきは何者なのかという問いです。今回の提議されている措置は一見無害に思われるかもしれません。しかし、仮にいったん権力を…それが一定の制限が課されたものだとしても…味わった一般市民はどうなるでしょう?より大きな力を求め、このような制限は不当だと言い出すのではないでしょうか?私たちは権力と対になる責任、それに費やされる大いなる対価を知っています。権力はたった一晩で得ることができますが、責任は違います。学ばなければなりません。長い年月が必要なのです。もし彼らがどれだけ良い精神の持ち主だったとしても、その責任を負う自覚のない一般市民に重要な議論ができるでしょうか?私達はもちろんできます。しかし、いざその時、彼らに我々と同じほどの知恵と知識を要求するのは不公平ではないでしょうか?私はそう考えます」
ヴェオヴィスは微笑んで続けた。
「突き詰めると、それが私が反対する理由です。なんとなれば、現在私達よりも幸せな人々に不幸をもたらすのです。どうして彼らにこんな面倒を押し付けるのでしょうか?こんな重荷を背負わせる必要がどこに?ないのです。みなさん。重荷を背負うのは私達でいい。採決では私につづいて「否」と声をあげてください。それで終わりです。ギルドマン。マイロード。ありがとうございました」
ヴェオヴィスが着席すると一斉に賛意のこもった声が湧き上がった。
リラ卿が合図をし、アトラスが起立する。
「皆様がた…ご存知かもしれませんが私の妻、ティアナはいまちょっと大変ですので、手短にお話させていただきます」
笑いが起こった。ヴェオヴィスでさえ、不承不承ではあるが頷いた。
「しかし、一言二言、私の仲間たちの言葉をお伝えします。ヴェオヴィス卿がどれほど忙しいかは理解していますが、私の提案をしっかり読んでもらえれば、彼が先程仰ったような、我々の権力の放棄とはほど遠い話であることがわかっていただけるでしょう。それだけではなく、私はヴェオヴィス卿に深く同意しているのです。権力とはただ与えられるものではない。そして責任。それは厳粛なものであり、その重荷はしかるべき教育を受けたものが負うべきです。それがドニのやり方です。それを変える気は私にはありません」
アトラスはそこで言葉を切り、円形をした階段状の議員席に座る顔をぐるっと見渡した。
「私の話は全ての人にとって利益となることであることを明言いたします。ですので皆様に今日の賛同をお願いすることはいたしません。私もヴェオヴィス卿と考えは同じです。あらゆる政策決定や予算討議は従来どおりこの議場にて行われるべきで、そのことで言い争うつもりはありません。私の提案する内容は与えることで、奪うものではないのです…ドニの一般市民がある程度、自身の人生をコントロールするための権利を持つことを許すことです。現在、彼らにはそれがありません」
アトラスは微笑んだ。
「首を振る人が何名かいらっしゃいますね。しかしそれが真実なのです。また何人かの方はそれを自身の目でご覧になったことがあるでしょう。ドニ…つまり私たちは貧困にあえいではいません。食べるものも家もあり、衛生設備や医薬品も必要なら手に入ります。しかし…ここが重要です…彼らはもっとより良くなれる。もっともっと」
アトラスは再び周囲を見渡し、並んだ顔をひとりひとり詳細に見つめた。
「皆さんの考えはわかります。なぜ?なぜ我々が彼らの向上に関心を払う必要がある?そこには二つの素晴らしい理由があります。ひとつは、私達が日々会話する相手のことを考えてください。怠け者や浪費家、なんの役にも立たない者のことではありません。良い人間、一生懸命に働く人々のことです。男性。女性。ここにいる私達はそんな人々のことを何十人も、何百人も知っていることでしょう。私達は日々彼らに会い、多くのことを彼らに頼っています。そして彼らも私達に頼っています。ふたつめ、これは正しいプライドとともによく言われることです。ドニは万の『時代』を統治している…しかし社会の良し悪しは、その版図の広さだけではなく、すべての市民の生活の質によっても判断されるべきです。わたしたちは富める民族です。寛大さをもつ余裕があります。私は、特に私たち自身に対して寛大であることこそ、私たちの道徳的義務であると主張したい。そしてこれこそが私がお願いしたいことです。皆様がた、ぜひ採決にて「是」と声をあげてください。ドニのために、そしていつの日か今日の我々自身を顧みて誇りを持てるように。ギルドマン。マイロード。ありがとうございました」
アトラスが着席すると、リラ卿は議場の後方にいる執事へと合図を送った。ヴェオヴィスとアトラスの最終弁論が終わり、いよいよ採決のときだ。
八名の執事が所定の位置に移動する。採決は議員の挙手にて行われるため、その数を彼らが数えるのだ。準備が整ったことを確認し、リラ卿は他の元老たちに目をやると、再び口を開いた。
「この運動に賛同の者は挙手を」
手が挙がり、執事たちが素早く計数していく。
「それでは反対の者は挙手を」
再び執事たちが計数する。
「よろしい」
仕事を終えた執事たちはそれぞれ席の間を下り、リラ卿の前に整列した。リラ卿は各々の持つ計数器を受け取り、目の前に広げられた大きな台帳に記していく。最後の一人の計数を記入すると、すばやく二列の合計をそれぞれ算出し、顔を上げて横に並ぶ元老たちを見た。通常元老たちは投票しない。だが採決の結果が三票以内の僅差だった場合は、彼らの意見によって決めることができるというしきたりとなっていた。リラ卿は居並ぶギルドマンたちすべてを見渡して言った。
「皆のもの。本件は完全に票が二分される結果となった。賛同が百八十二、反対が百八十。したがってやむを得ず、我々も本件に対して意思を表す」
ヴェオヴィスはただちに立ち上がった。
「いけません、マイロード!いかなる理由であれ…」
その語尾は次第にしぼみ、ヴェオヴィスは黙って頭を垂れた。
リラ卿はヴェオヴィスをしばらく見つめたのち立ち上がり、会の終了を宣言した。
「評議会の決定はすでに告げられた、マスター・ヴェオヴィス。本件は保留とする」

ランプの薄明かりに照らされた部屋で、スァルニルは注意深く扉を閉めると、振り向いて部屋の隅の椅子でぼんやりとしているヴェオヴィスに目をやった。
評議会の後はずいぶんと興奮していたものの、いくらかは落ち着いてきた。だがヴェオヴィスの中の陰鬱とした激しさはまだ残っているようだ。良くない兆しだ。棚から酒瓶を取り上げると、掲げて聞いてみた。
「飲むか?」
ヴェオヴィスはちょっと目を上げたが、首を振った。
スァルニルは肩をすくめて自分の杯になみなみと注ぎ、それをがぶ飲みすると再びヴェオヴィスの前に立った。
「なにかできることがあるはずだ」
ヴェオヴィスは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。スァルニルはそれを聞いて微笑んだ。
「手があるかもしれん」
ヴェオヴィスは興味を引かれて目を見開いた。
「続けてくれ」
スァルニルはヴェオヴィスの隣に座った。
「賢者と呼ばれる男がいてな。パンフレットを発行してる」
「パンフレット!」
ヴェオヴィスは吐き捨てた。
「おい、スァルニル。真面目に考えてくれ」
「真面目さ。そいつはシティ下層では有名人らしい。相当な数の人々がそれを読み、そいつの言葉に耳を傾けているそうだ。ティアナたち改革論者よりも影響力は大きい」
「そいつの主張はどんな内容なんだ?」
「説明するには長すぎるな。一つ二つ、自分で読んでみるといい。多分君は気に入ると思う」
ヴェオヴィスは疑わしそうな目で見つめ返し、スァルニルから杯を奪い取って一口飲んだ。
「その賢者とやらの名前はなんというんだ」
「アゲーリスだ」
ヴェオヴィスは大声で笑い出した。
「アゲーリス!『詐欺師』のアゲーリスか!?」
「あの容疑は立証されてないぞ」
ヴェオヴィスは手をひらひらさせて言った。
「スァルニル、ギルドは単なる噂で奴らを除名になどしない。それに俺は奴がギルドのマントを剥ぎ取られたその場に居たんだ。容疑はほぼ固いと聞いた」
「もう五十年も前のことだろう」
「五百年前だろうが同じことさ。奴は信用ならん」
「勘違いをしているようだが、俺は奴が信用できると言ってるんじゃない。君の役に立つと言っているんだ」
「役に立つだと?どう役に立つ?パンフレットを書いてもらうのか?馬鹿馬鹿しい」
スァルニルはうつむいた。スァルニルに対して、ヴェオヴィスがこれほど嫌味を言うのははじめてのことだ。それほどに今日の敗北は明らかにヴェオヴィスを打ちのめしていた。おそらく、それを行った「彼」に対しても。
「『賢者』がよそ者をよく思っていないのは確かだ。奴の主張は『血の交配はタブーである』だからな」
「奴がそう言ってるのか?」
「それ以上のこともな。やはり君は一度会ってみるべきだ」
「ハッ、あり得ん」
「じゃあこのままここでくよくよ悩んでいるだけか?」
「違う!」 ヴェオヴィスは立ち上がり、部屋を横切ると外套を掴んだ。
「俺はクヴィーアに帰って考える。どうやら君は俺の仲間に加わりたくないようだからな」
「ヴェオヴィス…」
「明日だ。明日はまだ気分がマシになっているだろう」
スァルニルはヴェオヴィスが出ていくのを見送ると、ため息をついた。確かに今の彼は機嫌が悪く、どんなアドバイスも聞きそうにない。明日か明後日まで待ったほうがよさそうだ。
スァルニルは苦笑いして、書き置きを残すために彼の机に向かうと紙にペンを走らせた。

アナは大きな枕を背にしてベッドに身をおこし、穏やかな微笑みを浮かべて赤ん坊をあやしていた。二十時間にも及ぶ大変な戦いの疲労でその顔色はいつになく青い。だが歓喜に満ちていた。
向かいの椅子にはタセラが手を組んで座り、笑顔で孫をじっと見つめている。アトラスが生まれたときに比べるととっても小さいわ…でもしっかりした子。健康なお子さんです、と産婆も言っていた。
彼らはコアにいた。季節は春。朝日の差し込む静かな部屋に、風に乗った花の香と鳥の声が届いている。
「アトラスは?」
タセラの問いに、アナは微笑んだ。
「もうすぐ来るはずよ」

The Book of Ti'ana © 1996 Cyan, Inc.

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