Book of Ti’ana 第5章─賢者

第五章|賢者

議事堂の前庭は、ギルドマンたちでひしめいていた。元老、グランドマスターとその助手たち、そしてそれ以外の、より下位の評議員たち…皆がこれから始まる大議事堂での討論を今か今かと待っているのだ。
過去にないような重要な議題の討論を前に、場は喧騒に包まれていた。立ち並ぶ絢爛な大理石の柱と柱のあいだではマントを着込んだ議員たちが、そこかしこでグループを作り、今回の提議に関する意見を交わしあっている。その中央の、比較的大きな集団の中にアトラスはいた。今回の提議は彼らによるものなのだ。
アトラスが評議会に戻って十五年が経つ。今やアトラスは、議会における進歩派の非公式なリーダーとして認められ、元老の政策決定においてもたびたび助言を求められるようになっていた。だが今日、アトラスは落ち着かない気分だった。
「なにか知らせはあったか?」
化学ギルドの友人、オーレンがやってきて輪に加わると、尋ねた。
「まだなにも」
「彼女なら大丈夫さ」
アトラスの肩を抱えながら、別な友人…こちらは立法ギルドのペンジュールが答えた。
「そうだといいが」
とはいうものの、アトラスは明らかにそわそわしている。
「それで、今日はどうする?」
派閥の中核を担う十数人のマスターたちの顔を眺めて、オーレンが尋ねた。
「だれかいいアイデアはないか?」
皆は思わず笑った。オーレンは化学者だけあって、いつもはっきりした答えを欲しがる。
「どちらにせよ、もう時間はないぞ」
この中では一番年長のハミールはメッセンジャーギルドのグランドマスターだ。白く長いあごひげを引っ張りながら続けた。「我らが友人の弁舌に期待するとしよう」
オーレンはアトラスを見つめ、ニヤリと笑った。
「じゃ、俺たちの負けだな。今日のマスター・アトラスは一つの事以外考えられそうにないご様子だ」
アトラスは微笑んだ。
「心配するなよ、オーレン。うまくやるさ。話し始めれば気も紛れる」
それを聞いて皆は頷いた。この提議は皆にとって重要なことではあるが、ティアナの無事はそれ以上に大事だった。
実際この計画はティアナなくして成立しなかった。彼らをシティ下層に連れていき、みなの状況を監督していたのも彼女だったからだ。ティアナはこの計画の中心であり、発案者だった。
「あいつらはヴェオヴィスが対抗弁論に立つと言っているが」
ペンジュールは離れた場所に集まる、ヴェオヴィスを中心とした派閥集団を眺めながら言った。
「それじゃ今日の討論は長引きそうだな」
司書ギルドのテキスがめんどくさそうに答える。
「まちがいなく面倒だ」
ペンジュールが付け加え、全員が笑った。
「かもね。でも彼の意見はわかっている。彼はこの小さな変化がより大きな変化のはじまりだと恐れている。そしてそれは彼だけじゃない。僕らの任務はその恐怖をしずめることだ…ヴェオヴィスではなく、その周りの人たちのだ。彼らは僕らが話す言葉の、真の意味がきっとわかるはずだ。それで十分。そしてそれこそが勝利への道なんだ」
それを聞いて皆が頷く。
「でも、もし負けたら?」オーレンが尋ねた。
アトラスは微笑んで答えた。
「そしたらシティ下層を救う別な方法を考えるさ。ティアナはいつも言っていた。『リーコーを叱る方法は一つだけじゃない』ってね」

静まり返った議場で、ヴェオヴィスは自分の席から立ち上がって振り返ると、集まった議員たちに向かって話し始めた。
「皆様がた。ご承知の通り、私の役目はこの軽率な計画を受け入れないように促すことです。多くを申し上げる必要はないでしょう…シティを統治する現在のシステムは五千年以上にわたって機能しており、そしてそれが今現在も十分うまく機能していると感じている方もいらっしゃいましょう」
ヴェオヴィスはそこで一旦言葉を切り、アトラスを一瞥した。
「ただそこには問題も存在します。それはドニを導くべきは何者なのかという問いです。今回の提議されている措置は一見無害に思われるかもしれません。しかし、仮にいったん権力を…それが一定の制限が課されたものだとしても…味わった一般市民はどうなるでしょう?より大きな力を求め、このような制限は不当だと言い出すのではないでしょうか?私たちは権力と対になる責任、それに費やされる大いなる対価を知っています。権力はたった一晩で得ることができますが、責任は違います。学ばなければなりません。長い年月が必要なのです。もし彼らがどれだけ良い精神の持ち主だったとしても、その責任を負う自覚のない一般市民に重要な議論ができるでしょうか?私達はもちろんできます。しかし、いざその時、彼らに我々と同じほどの知恵と知識を要求するのは不公平ではないでしょうか?私はそう考えます」
ヴェオヴィスは微笑んで続けた。
「突き詰めると、それが私が反対する理由です。なんとなれば、現在私達よりも幸せな人々に不幸をもたらすのです。どうして彼らにこんな面倒を押し付けるのでしょうか?こんな重荷を背負わせる必要がどこに?ないのです。みなさん。重荷を背負うのは私達でいい。採決では私につづいて「否」と声をあげてください。それで終わりです。ギルドマン。マイロード。ありがとうございました」
ヴェオヴィスが着席すると一斉に賛意のこもった声が湧き上がった。
リラ卿が合図をし、アトラスが起立する。
「皆様がた…ご存知かもしれませんが私の妻、ティアナはいまちょっと大変ですので、手短にお話させていただきます」
笑いが起こった。ヴェオヴィスでさえ、不承不承ではあるが頷いた。
「しかし、一言二言、私の仲間たちの言葉をお伝えします。ヴェオヴィス卿がどれほど忙しいかは理解していますが、私の提案をしっかり読んでもらえれば、彼が先程仰ったような、我々の権力の放棄とはほど遠い話であることがわかっていただけるでしょう。それだけではなく、私はヴェオヴィス卿に深く同意しているのです。権力とはただ与えられるものではない。そして責任。それは厳粛なものであり、その重荷はしかるべき教育を受けたものが負うべきです。それがドニのやり方です。それを変える気は私にはありません」
アトラスはそこで言葉を切り、円形をした階段状の議員席に座る顔をぐるっと見渡した。
「私の話は全ての人にとって利益となることであることを明言いたします。ですので皆様に今日の賛同をお願いすることはいたしません。私もヴェオヴィス卿と考えは同じです。あらゆる政策決定や予算討議は従来どおりこの議場にて行われるべきで、そのことで言い争うつもりはありません。私の提案する内容は与えることで、奪うものではないのです…ドニの一般市民がある程度、自身の人生をコントロールするための権利を持つことを許すことです。現在、彼らにはそれがありません」
アトラスは微笑んだ。
「首を振る人が何名かいらっしゃいますね。しかしそれが真実なのです。また何人かの方はそれを自身の目でご覧になったことがあるでしょう。ドニ…つまり私たちは貧困にあえいではいません。食べるものも家もあり、衛生設備や医薬品も必要なら手に入ります。しかし…ここが重要です…彼らはもっとより良くなれる。もっともっと」
アトラスは再び周囲を見渡し、並んだ顔をひとりひとり詳細に見つめた。
「皆さんの考えはわかります。なぜ?なぜ我々が彼らの向上に関心を払う必要がある?そこには二つの素晴らしい理由があります。ひとつは、私達が日々会話する相手のことを考えてください。怠け者や浪費家、なんの役にも立たない者のことではありません。良い人間、一生懸命に働く人々のことです。男性。女性。ここにいる私達はそんな人々のことを何十人も、何百人も知っていることでしょう。私達は日々彼らに会い、多くのことを彼らに頼っています。そして彼らも私達に頼っています。ふたつめ、これは正しいプライドとともによく言われることです。ドニは万の『時代』を統治している…しかし社会の良し悪しは、その版図の広さだけではなく、すべての市民の生活の質によっても判断されるべきです。わたしたちは富める民族です。寛大さをもつ余裕があります。私は、特に私たち自身に対して寛大であることこそ、私たちの道徳的義務であると主張したい。そしてこれこそが私がお願いしたいことです。皆様がた、ぜひ採決にて「是」と声をあげてください。ドニのために、そしていつの日か今日の我々自身を顧みて誇りを持てるように。ギルドマン。マイロード。ありがとうございました」
アトラスが着席すると、リラ卿は議場の後方にいる執事へと合図を送った。ヴェオヴィスとアトラスの最終弁論が終わり、いよいよ採決のときだ。
八名の執事が所定の位置に移動する。採決は議員の挙手にて行われるため、その数を彼らが数えるのだ。準備が整ったことを確認し、リラ卿は他の元老たちに目をやると、再び口を開いた。
「この運動に賛同の者は挙手を」
手が挙がり、執事たちが素早く計数していく。
「それでは反対の者は挙手を」
再び執事たちが計数する。
「よろしい」
仕事を終えた執事たちはそれぞれ席の間を下り、リラ卿の前に整列した。リラ卿は各々の持つ計数器を受け取り、目の前に広げられた大きな台帳に記していく。最後の一人の計数を記入すると、すばやく二列の合計をそれぞれ算出し、顔を上げて横に並ぶ元老たちを見た。通常元老たちは投票しない。だが採決の結果が三票以内の僅差だった場合は、彼らの意見によって決めることができるというしきたりとなっていた。リラ卿は居並ぶギルドマンたちすべてを見渡して言った。
「皆のもの。本件は完全に票が二分される結果となった。賛同が百八十二、反対が百八十。したがってやむを得ず、我々も本件に対して意思を表す」
ヴェオヴィスはただちに立ち上がった。
「いけません、マイロード!いかなる理由であれ…」
その語尾は次第にしぼみ、ヴェオヴィスは黙って頭を垂れた。
リラ卿はヴェオヴィスをしばらく見つめたのち立ち上がり、会の終了を宣言した。
「評議会の決定はすでに告げられた、マスター・ヴェオヴィス。本件は保留とする」

ランプの薄明かりに照らされた部屋で、スァルニルは注意深く扉を閉めると、振り向いて部屋の隅の椅子でぼんやりとしているヴェオヴィスに目をやった。
評議会の後はずいぶんと興奮していたものの、いくらかは落ち着いてきた。だがヴェオヴィスの中の陰鬱とした激しさはまだ残っているようだ。良くない兆しだ。棚から酒瓶を取り上げると、掲げて聞いてみた。
「飲むか?」
ヴェオヴィスはちょっと目を上げたが、首を振った。
スァルニルは肩をすくめて自分の杯になみなみと注ぎ、それをがぶ飲みすると再びヴェオヴィスの前に立った。
「なにかできることがあるはずだ」
ヴェオヴィスは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。スァルニルはそれを聞いて微笑んだ。
「手があるかもしれん」
ヴェオヴィスは興味を引かれて目を見開いた。
「続けてくれ」
スァルニルはヴェオヴィスの隣に座った。
「賢者と呼ばれる男がいてな。パンフレットを発行してる」
「パンフレット!」
ヴェオヴィスは吐き捨てた。
「おい、スァルニル。真面目に考えてくれ」
「真面目さ。そいつはシティ下層では有名人らしい。相当な数の人々がそれを読み、そいつの言葉に耳を傾けているそうだ。ティアナたち改革論者よりも影響力は大きい」
「そいつの主張はどんな内容なんだ?」
「説明するには長すぎるな。一つ二つ、自分で読んでみるといい。多分君は気に入ると思う」
ヴェオヴィスは疑わしそうな目で見つめ返し、スァルニルから杯を奪い取って一口飲んだ。
「その賢者とやらの名前はなんというんだ」
「アゲーリスだ」
ヴェオヴィスは大声で笑い出した。
「アゲーリス!『詐欺師』のアゲーリスか!?」
「あの容疑は立証されてないぞ」
ヴェオヴィスは手をひらひらさせて言った。
「スァルニル、ギルドは単なる噂で奴らを除名になどしない。それに俺は奴がギルドのマントを剥ぎ取られたその場に居たんだ。容疑はほぼ固いと聞いた」
「もう五十年も前のことだろう」
「五百年前だろうが同じことさ。奴は信用ならん」
「勘違いをしているようだが、俺は奴が信用できると言ってるんじゃない。君の役に立つと言っているんだ」
「役に立つだと?どう役に立つ?パンフレットを書いてもらうのか?馬鹿馬鹿しい」
スァルニルはうつむいた。スァルニルに対して、ヴェオヴィスがこれほど嫌味を言うのははじめてのことだ。それほどに今日の敗北は明らかにヴェオヴィスを打ちのめしていた。おそらく、それを行った「彼」に対しても。
「『賢者』がよそ者をよく思っていないのは確かだ。奴の主張は『血の交配はタブーである』だからな」
「奴がそう言ってるのか?」
「それ以上のこともな。やはり君は一度会ってみるべきだ」
「ハッ、あり得ん」
「じゃあこのままここでくよくよ悩んでいるだけか?」
「違う!」 ヴェオヴィスは立ち上がり、部屋を横切ると外套を掴んだ。
「俺はクヴィーアに帰って考える。どうやら君は俺の仲間に加わりたくないようだからな」
「ヴェオヴィス…」
「明日だ。明日はまだ気分がマシになっているだろう」
スァルニルはヴェオヴィスが出ていくのを見送ると、ため息をついた。確かに今の彼は機嫌が悪く、どんなアドバイスも聞きそうにない。明日か明後日まで待ったほうがよさそうだ。
スァルニルは苦笑いして、書き置きを残すために彼の机に向かうと紙にペンを走らせた。

アナは大きな枕を背にしてベッドに身をおこし、穏やかな微笑みを浮かべて赤ん坊をあやしていた。二十時間にも及ぶ大変な戦いの疲労でその顔色はいつになく青い。だが歓喜に満ちていた。
向かいの椅子にはタセラが手を組んで座り、笑顔で孫をじっと見つめている。アトラスが生まれたときに比べるととっても小さいわ…でもしっかりした子。健康なお子さんです、と産婆も言っていた。
彼らはコアにいた。季節は春。朝日の差し込む静かな部屋に、風に乗った花の香と鳥の声が届いている。
「アトラスはまだなの?」
タセラの問いに、アナは微笑んだ。
「もうすぐ来るはずよ。さっさと帰ってくるわけには行かないわ、今日の評議会の主役なんだから」
「それにしたって…」
そういいかけたタセラの顔が明るくなった。
「まあお帰り、アトラス!遅かったじゃない!」
アトラスは母に挨拶をしてその横を通り過ぎると、ベッドのアナの側へと歩み寄った。その顔は驚きに満ちていた。
「男の子よ」
アトラスはベッドの側に膝を付き、顔の高さを眠る赤ん坊に揃えると、目をいっぱいに見開いた。僕の息子。
「なんて…」
「あなた似ね」
アナは柔らかく笑った。「かわいいでしょ?」
アトラスは頷いて、アナを見上げた。
「ありがとう」
静かにそう言って、赤ん坊を起こさないよう注意深くアナにキスをした。
そして再びじっくりと赤ん坊を見つめた。プロポーズ前夜に眠るアナを見つめたときのように…今その二つの瞬間が、鎖のように結びつく。
「やあ、ゲーン坊や」
赤ん坊の口元に、最初の微笑みが浮かんだような気がした。
「世界へようこそ」

マスター・オーレンが現れたのは、祝宴も終わりの頃になってからだった。遅れると聞いていたが、待っても待っても現れないのでもう来ないかもしれないと考え始めた頃だった。オーレンの顔は暗く、ふさぎ込んでいた。
出迎えたアトラスはその様子を見て尋ねた。
「どうしたんだい、オーレン」
「我々に呼び出しだ…すべてのギルドマンは皆すぐドニに戻って報告すること、という通達が来た。どうやら若いメンテナー二人が失踪したらしい。我々はそれらの『時代』へ捜索に行かなければならない」
アトラスは目を瞬いた。
「そいつは…」
「ああ、厄介な仕事だ。それで、維持ギルドは他の全ギルドに応援を要請した。状況は…正直よくないな。二人はなにか重要な調査を行っていたらしい。それが何かは知らないけど、グランドマスター・ジェダーリスは二人が誘拐されたか、殺害された可能性が高いと考えているみたいだ」
それは衝撃的なニュースだった。
「なんてことだ…ともあれ入りたまえ。家族を紹介させてほしい。その間に、みんなを集めてこの知らせを伝えておく。その後、出発しよう」
オーレンは頷き、アトラスの腕をそっと掴んで謝った。
「幸せな日にこんな不吉なニュースを伝えて済まない…男の子だそうだね?」
アトラスの顔に再び笑顔が戻った。
「顔を見てやってくれ、オーレン。名前はゲーンというんだ。将来は偉大なギルドマンになるぞ」

一時間後、アトラスはマスター・ジェダーリスの前に立っていた。
「ああ、マスター・アトラス。おめでとうを言わせてくれ。男の子だ、そうだろう?いい、実にいいニュースだ!」
「ありがとうございます、グランドマスター」
アトラスは深くお辞儀をした。
「何が起きたかは聞いたか?」
「我々は『時代』へ捜索に出るのですね」
「そうだ。だがすべての時代じゃない、二人が過去五年の間に、個人的に調査を行っていた時代に限られる」
「それは…?」
「これは誰にも言うんじゃないぞ」
ジェダーリスはそう言うと、わずかに声を落として身を乗り出した。
「いくつかの『空白の書』がホールから持ち出され、行方がわからん。どうやら失踪した二人が、自分たちの調査のために持ち出したんじゃないかという嫌疑がかけられている」
それは由々しきニュースだった。アトラスはすぐに事態の難しさを理解した。
「彼らが何の調査を行っていたかは教えてもらえるのですか、マスター・ジェダーリス」
「いいや。だがおそらく、彼らは巡回に送られていた時代のうちの一つで何かを見つけたのだと考えられている。何か大変なものをだ。そこで持ち出した空白の書を使って、その確実な証拠を得ようとしたのではないか…とな」
「いくつの時代が含まれているのですか?」
「六十以上だ」
「マスターはこの件に、高い地位の者が関わっているとお考えなのでは?」
ジェダーリスは頷いた。
「だから我々はチーム単位で捜索にあたる。個々のギルドマンではなくな。これ以上仲間を失うリスクは冒したくない。アトラス、君は私のメンテナー・チームに加わってほしい」
「わかりました。どこへ向かえばよろしいでしょうか」
「クヴィーアだ」
「クヴィーア!」
ジェダーリスは片手を上げた。
「まあ待て。ラケリ卿が君に頼みたいとのことなんだ。彼は君を責めたりはしていない。よく考えたうえで、君が彼の家に伝わる本の調査チームを率いるなら、家の名にかけられた嫌疑を晴らしてくれるだろう、と仰ったんだ。わかっていると思うが、これは非常にデリケートな問題なんだ」
「それはわかりますが…」
「これは決定だ」
ジェダーリスは切り上げるようにそう言った。
アトラスは彼を見上げ、礼をした。
「仰せのままに、マスター・ジェダーリス」

クヴィーア桟橋の階段で、アトラスはラケリ卿に出迎えられた。その背後には、ねじれた形をした巨大なクヴィーアの島影が全てを覆い隠している。今は早朝で、大洞窟内の光量はまだ薄暗い。だが湖の向こうに見えるドニは、焚き火の残り火のように輝いていた。
「よく来てくれた、アトラス。それと、おめでとう。息子が生まれたと聞いたよ」
アトラスは老人の手を取って微笑んだ。
「ありがとうございます、ラケリ卿。ゲーンと名付けました」
ラケリは再び微笑み、手を強く握り返した。
「良い名だ。曽祖父の名を受け継いだのだね。彼は偉大な男だった…もしこのようなことがなければ会いたいところだったが…来てくれ。これは難しい仕事だが、やり遂げねば」
アトラスは頷き、ラケリについて建物の中へ入った。後ろには六名の若いメンテナー、一人のギルドマスターが付き従っている。
建物の中は静かだった。コアでの祝宴のあとでは余計に、陰鬱で冷たい場所に思える。
本の間につづく巨大な扉は鍵が欠けられていた。ラケリは大きな鍵束を取り出すと鍵を開け、右手の扉を押して開いた。
アトラスは部屋に足を踏み入れるのをすこしためらい、尋ねた。
「我々と同行はされないのですか、マイロード?」
「そのほうが良いであろう、マスター・アトラス。今回の件は難しい。通常の巡回は、昔から行ってきたが…今回のこれは、すべてに良くない光をあてる。そう思わないかね?」
「きっと説明があると思います、マイロード」
アトラスは慰めるように微笑んだ。
「できる限り効率的に、短時間で作業を終えられるようにします。またここを去る前に、報告書の複写をお渡しいたします」
ラケリは微笑んだ
「ありがとう、アトラス。感謝する」

クヴィーアの本の間は、荘厳さを感じさせる部屋だった。アトラスは以前に何度も見たことがあるにもかかわらず、一度足を踏み入れると、再び年月の重みをその身に感じさせられた。部屋の三面は天井までつづく本棚に覆われている。数え切れないほどの注釈本の背表紙には、ナンバリングと日付が金色のドニ文字で書かれている。左手の面だけ、本棚の一部が開いており、二つの大きな窓がはめ込まれてる。様々な色の半透明の石を組み合わせたその窓も天井まで続く大きさだ。その窓を通して湖と、大洞窟の壁が遥かに見通せる。
本の間は、その全体がクヴィーアを構成するねじれた巨岩から拍車のように突き出ており、真下の水面までには十スパンもの空間があった。
若いギルドマンは部屋に入ること自体おびえているようだ。ラケリ家の所蔵する本は六冊。いずれも太古の時代だ。大きく重いそれらの本は、部屋の最奥にある大理石の台座に傾いた形で設置されていた。それぞれの時代に合った色合いの革で装丁されており、台座に頑丈な鎖でつながっている。鎖は一見すると金のように見えるが実際にはドニで最も硬い素材、ナラ製だ。
アトラスは台座に近寄り、それぞれの本をじっと眺めた。六冊のうち五冊は閉じられているが、一冊だけ開いた状態の本がある。ニドゥ・ジェマートの書だ。説明板が早朝の光をうけてぼんやりと輝いている。
ヴェオヴィスとまだ友人だったころ、ニドゥ・ジェマートへは以前何度も訪れたことがある。
今はすっかり疎遠になってしまったことを、アトラスは悲しく思った。この十五年で二人の間に開いてしまった溝をつなぐ架け橋になるなにかがあればいいのだが…。
アトラスは振り向いてギルドマスターに声をかけた。
「マスター・クラ、ギルドマンを二人、入り口で見張りに立たせてくれ。ニドゥ・ジェマートへ出発する」
ギルドマスターが頷き、部下に指示をはじめた時、突然ドアが激しく開き、嵐のようにヴェオヴィスが入ってきた。
「やはりそうか!」
ヴェオヴィスは叫び、アトラスを指差した。
「この任務にお前が志願するだろうと思っていたぞ!」
とりなそうと近寄ったマスター・クラをヴェオヴィスは睨みつけた。
「誰だか知らんが黙れ!俺はギルドマスター・アトラスと話しているんだ!」
アトラスはヴェオヴィスが大股で近づいてくるのを、無表情を保って待った。だが知らず、緊張のうちに右手は強く握りしめられていた。
「なんだ?」
ヴェオヴィスはアトラスの目の前、腕の長さほどの距離で立ち止まった。
「何か言うことはないのか?」
アトラスは首を振った。不当に非難された時、一番いいのは黙っていることだということをアトラスは知っていた。
「余計なことに首を突っ込まずにはいられないのか?わかったらさっさと…」
「ヴェオヴィス!」
ヴェオヴィスは背筋を伸ばし、振り向いた。入り口の扉にラケリ卿が立っていた。
「父上?」
「部屋を出るんだ」
ラケリの声は冷徹な命令を下すときの声だった。アトラスは、彼がヴェオヴィスに対してその口調を用いるのをはじめて目にした。
ヴェオヴィスは礼をし、アトラスを睨むと、部屋を出ていった。入れ替わるようにラケリが近づいてくる。
「息子を許してくれ、アトラス。あいつは事態の深刻さを理解しておらんのだ。今は代わりに私が謝罪しよう。あいつにも後で謝罪するよう言って聞かせておく」
「ありがとうございます、ラケリ卿。しかしそれは必要ありません。私と息子さんの関係はずいぶん悪くなってしまいました。あなたのその言葉だけで十分です」
ラケリは微笑んで静かに頷いた。
「君は賢く優しいな、アトラス。息子が君という親友を失ったことについて、私は後悔しているのだ。ああ、君に責任はない。息子はひねくれ者でね…私の父によく似ている」
ぎこちない静寂が流れ、ラケリは再び頷いた。
「では私はもう行く。アトラス、為すべきことを為したまえ。私たちには隠すことなどなにもない」
アトラスは深く頭を下げた。
「仰せのままに」

二名の失踪者についてなんの手がかりもないまま一月が過ぎた。六十の時代においてゆるやかに進行した捜索作業も終了となった。アトラスたちメンテナー・チームがクヴィーアを後にして二日後、クヴィーアの頂上に開けたベランダで、ヴェオヴィスはラケリ卿に提出された報告書の写しに目を通していた。
最終ページの結論を読み終えたヴェオヴィスは、サイドボードに報告書を置いて椅子に深く腰掛けると、考え込むように遠くを見つめた。
向かいに座るスァルニルはそんな様子をじっと見ていたが、しばらくして尋ねた。
「それで?われらが友人、アトラスはなんと?」
ヴェオヴィスはしばらく黙っていたが、スァルニルに向き直って言った。
「非常にきっちりした仕事内容だ。それに公平でもあるし、克明だ。俺は彼を誤解していたかもしれん」
「そう思うのか」
スァルニルは笑った。
「個人的には、彼は君を嫌悪していると思ったがね」
「かもな。だがこの報告書にはそんな気配はない」
「報告書ではそうかもしれんが…」
ヴェオヴィスは目を細めた。
「何が言いたい」
「皆が目にするものに書いてあることが本心とは限らんさ。元老に提出するものとは別な内容のものを寄越した可能性だってある」
「父がそんなことを知ったら、俺にも言うはずだ」
「それがリラ卿にだけ、だったら?」
ヴェオヴィスは俯いたが、首を振った。
「ばかな」
だがその言葉は確信に欠けていた。
「やつは何を見つけたって?」
「見つけた?何も見つかるはずなど無い。一体何を見つけるっていうんだ?」
「いや、言葉の通りさ。なにか見つけたと言ったかもしれないだろう?」
「消えたメンテナーとかか?」
スァルニルは皮肉めいた笑いを返した。
「やつらは簡単に騙されただろうさ、なにせまだギルドマン見習いだからな」
その考えにヴェオヴィスは明らかに心を乱されたが、再び首を振った。
「アトラスは俺を嫌っていても、いかさまはしない。ましてや陰口をたたいたりする男じゃない」
「本当のところなんて誰にわかる?君はやつがよそ者と結婚するのに反対し、ひどく傷つけた。簡単に忘れることなどできない類の行為だ。機会があれば復讐しようと考えるには十分な動機じゃないか?」
スァルニルの声は陰謀めいてきた。
「そうじゃないかもしれん。だが確かめる方法ならある」
「確かめる?どうやって」
「そういうのが得意な友人がいる。そいつは色々な話を召使いやそういった者から聞くことが多いんだが…なにか裏で起きているようなことは、大抵のことを知っている」
「それは誰だ?」
スァルニルは椅子に座り直して微笑んだ。
「君は名前を知ってるよ」
「アゲーリスか!」
ヴェオヴィスは軽蔑したように笑うと、首を振った。
「やつの言葉に耳を貸せというのか?」
「君は彼が何を言っても信じないだろう。だがなんの損がある?聞いて、使えるものは使えばいいだけだろう」
「それでやつがそうする狙いはなんだ?」
スァルニルは驚いたように目を瞬いた。
「狙い?そんなものはないさ。彼は俺に借りがある。それに、君もきっと彼と会ったら楽しめると思うぜ。君も彼も強く、聡明な男だ。君らの討論が見てみたい」
ヴェオヴィスはしばらくスァルニルを見つめて、不承不承肩をすくめた。
「わかったよ。会見をセッティングしてくれ…だが、この件は誰にも言うな。もし誰かに見られたら…」
スァルニルは微笑んで立ち上がり、ヴェオヴィスに小さくお辞儀をした。
「心配するな、ヴェオヴィス。完璧な場所を知ってる」

ドニの夜には地上のように月や星の明かりは存在せず、ただただ暗闇があるばかりだ。湖が暗くなるのは発光する微生物の活動が低調になるためで、彼らははるかな昔から三十時間周期の正確な体内時計をもっており、それは地球の反対側にいても変わることはないのだった。
カーリス邸の屋上にある庭園でアナはひとり手すりにもたれ、シティ上層街を見つめていた。まだ宵のうちは明るく輝きを放ち、大洞窟の壁面にはりついた大きな真珠貝の殻のよう見えていたそこも、今は街路に点々と並ぶランプの明かりだけで、まるで巨人の食料庫の隅に張られたぼろぼろの蜘蛛の巣のようだった。
湾外の湖にはいくつもの光が瞬いており、そこに島があることを示していた。あそこには人がいるんだわ。そのうちのどれか一つにアトラスがいる。もう立ち去ったとしても、いずれにせよドニにはいる。
アナはため息をついた。彼が恋しい。階下の子供部屋から聞こえてきた赤ん坊の泣き声を聞いてアナは振り向いたが、しばらく目を閉じて、すべて投げ出したくなる誘惑と戦った。そして気を持ち直すと、木製のハッチをくぐって階下へと戻った。
泣き声がさらに大きく聞こえる。繰り返し続く高い泣き声は、まるで終わりがないように思えた。仮に僅かな時間止むことがあったとしても、その後より一層激しくなるのだった。
部屋に戻ると、看護師のむこう側、隅の机で何かを書き付けていた老人…医療ギルドのマスター・ジュラが顔を上げ、問題の原因は子供ではなくアナだといわんばかりに顔をしかめた。
彼を無視してゆりかごに近寄ると、横たわったゲーンは顔を真赤にして泣き声を上げ、手足をばたつかせていた。アナは悲しくなり思わず抱き上げて抱きしめたい思いにかられたが、たとえそうしても何も解決しないだろう。アナが何をしても泣き声は止むことはない。
しばらくして、医者が口を開いた。その口調や態度は冷淡そのものだった。
「まあ、原因は単純なものだ。胃だな。十分な栄養が行ってないせいで痛みが起きているのだ」
「痛みが?」
医者は頷き、再びノートに目を戻した。
「ドニの子であれば問題なくなにか処方できるのだがね…」
「すみません」
アナはその言葉に割り込んだ。
「それはどういう意味ですか?」
医者、マスター・ジュラは驚いたように目を瞬いた。そして苛ついたように続けた。
「わかりきったことだろう?この子は普通じゃない。ドニ人でも地上人でもない奇妙な混合種まざりものだ。全く、よく生きているものだと思うよ!」
アナはその言葉にショックを受けて頭が真っ白になった。この子のことを奇妙な実験動物のように言うなんて!泣き声を上げる息子を見下ろして、アナはふたたび老いた医者に尋ねた。
「検査もしてないのになぜわかるのですか?マスター・ジュラ」
老人は鼻で笑って言った。
「検査するまでもない。言ったろう、わかりきったことだ。ドニと地上の混血など許されるものじゃない。全くの本心から言って、この子は死んだほうがマシだね」
「出てって」
再びノートに目を戻していたジュラはその言葉に顔を上げると、まず看護師の方を見て、それからアナが自分を見ていることに気づいた。
「ええ、あんたよ爺さん。聞こえたでしょ?出てって。さもないと叩き出すわよ」
「何故だね、私は…」
「出ていけ!私の息子は死んだほうがマシですって?よくも…よくもそんなことが言えたわね、この恥知らず!」
ジュラは毛を逆立てると、ノートを閉じて鞄にしまい立ち上がった。
「私だって願い下げだ、こんな場所」
「あらそう」
アナはこの無礼な男を殴りつけたい気持ちを抑えて、看護師の方を振り返った。
「あんたもよ。荷物をまとめて出て行きなさい。これ以上必要ないわ」

港を見下ろすジ・テーリ地区のとある家、その静まり返った一階の部屋の扉を閉めたヴェオヴィスはあたりを見回した。古臭いがそれなりの部屋で、一方の壁に偏して大きな椅子が三つが置かれている。反対側の壁には大きな木の戸棚が、そして残る二面の壁にはどちらも絵が飾られていた。どちらも女性の人物画だ。いずれも厳格で上品さが感じられ、まとっているのも暗く質素な、四千年以上の歴史をもつドニ淑女の服装だ。
ヴェオヴィスは首を振って振り向いた。午後の四ツ鐘の音が聞こえてきた。静かで、平和な雰囲気だ。
アゲーリスは現れるだろうか。
もし現れたとしたら、過去の不正についてなんと言うだろう。
あの時、アゲーリスが排除された日の、やつの怒り様を今でも思い出せる。グランドマスターを睨みつけ、ギルドマントを投げ捨ててホールを飛び出していく様を、鮮やかに。
当時のヴェオヴィスは学生であり、マスターどころかギルドマンですらなかった。もう五十年も昔の出来事だ。
背後でドアがきしんで開く音が聞こえた。振り向くと、そこにいたのはスァルニルだった。
「彼は来たのか?」
スァルニルは頷くと一歩下がり、その後ろからアゲーリスが現れた。
背が高く、広い肩幅。しかし腹には肉がついている。禿げかかった白い髪は頭の天辺から後ろへとなでつけられ、時代遅れなぞろ長い服をまとっていた。シンプルな黒のチュニック、だぶついたズボンも黒。
しかしその眼には注意を引かれた。
無礼と言ってもいいくらい熱心に、ヴェオヴィスを見つめている。
「マイロード」
アゲーリスの挨拶には、わずかに冷笑が含まれているように感じられた。
ヴェオヴィスも同じように返した。
「賢者どの」
アゲーリスは微笑んだ。
「私は間違っていなかったようです」
「何がだ」
「あなたの中には火が燃えていると申し上げました。それは正しかった」
ヴェオヴィスはあざけるように笑った。
「他の者の口からそれを聞いたなら嬉しかったろうな」
「私はそうではないと?」
「噂以外にはお前のことをよく知らんからな」
「わたしの文章をお読みになったのでは?」
「まったく読んでない」
「ではよくお越しくださいました」
「謙虚だな」
「私が必要ですか?」
ヴェオヴィスは笑った。
「お前は鋭い、アゲーリス。俺が言うのはそれだけだ」
「鋭さは自分自身をも傷つけますよ、まちがいなく。何故あなたはここに?」
「正直、自分でもわからん。お前が俺の役に立つと説得されてな」
「あなたの役に?」
アゲーリスは笑いだし、窓の側へ近づくと外を眺めた。
「あなたはドニの支配階級ではありませんか。どうして私にお手伝いできることがありましょう。ただの一般市民ですよ」
アゲーリスの目にはからかうような光があった。それがむしろヴェオヴィスの興味を引いた。
「俺の知ったことか」
「いいえ」
アゲーリスは振り向いて微笑んだ。
「おそらく可能です」
「言ってみろ」
「私は耳が大きいのです」
「スァルニルも言っていたな。だがそこには役に立つ情報があるのか?」
アゲーリスは肩をすくめた。
「それはどうでしょう」
「なにかあるのか?俺の役に立ちそうな話が」
「もしくは、あなたの敵にとっての弱みが、ですかな」
「どっちでもいい」
賢者は微笑んだ。
「我々は重要な一点を共有しております、ヴェオヴィス卿。ドニを愛し、ドニの血の清らかさを信じていることです」
「どういう意味だ」
「あなたのかつての友人、アトラスとその間違った妻のことですよ」
ヴェオヴィスは目を細めた。
「彼らがどうした」
「昨夜のことです。あのよそ者の女は医者のマスター・ジュラとその看護師を家から叩き出したそうです」
ヴェオヴィスは再びスァルニルの方を見た。それが本当ならば、たしかにニュースだ。
「なぜそれを知っている」
アゲーリスはニヤリと笑った。
「マスター・ジュラが言っているようですな。時間と手間を無駄にしないためには、『半人間』を平和的にどこかへやってしまうことだ、とね」
「なんだと。マスター・アトラスはそれについてなんと言っている」
「彼になにが言えましょう?彼は遠くにいます。まあ戻ってきたらすぐに知るでしょうがね」
「恥ずべきことだ」
「ええ、まさしく。このようなことは許されることではありません」
「俺はそれを防ぐためにできる限りのことをした」
「ええ、そうでしょうとも」
ヴェオヴィスは俯いた。
「お前は俺の望みがわかっているんだろう。だがお前の望みはなんだ?」
「あなたと友人になりたい」
アゲーリスの顔に皮肉めいたものを予期してヴェオヴィスは顔を上げた。だが意外にもその顔は真剣だった。
「私にはずっと対等な仲間というものがいませんでした。群衆に説教するのは簡単です…だがそれでは何も変わらない。私の人生は終わったのです。ギルドから放り出された日に」
「ギルドには正しい理由が…」
「そんなものはない!」
鋭い返事に、ヴェオヴィスは驚いた。
「私は冤罪を受けたのです。失くなった本などなかったし、あったとしてもそれを持ち去ったのは私ではない」
「と、お前は主張する」
ヴェオヴィスは静かに言った。
「ええ、私は主張します」
しばらく沈黙が流れ、ヴェオヴィスは肩をすくめた。
「一日か二日考えさせてくれ。もしその気になったら、また会う」
「お望み通りに」
ヴェオヴィスは頷き、笑った。
「彼女は医者を叩き出したと言ったな?」
「ええ、脅しつけてね」
「ふむ…」
ヴェオヴィスはなにか考え込みながらうなずき、ドアへ向かって歩きだした。
「なかなか面白かったぞ、賢者」
「こちらこそ、ヴェオヴィス卿」

あたりが次第に暗くなる頃、アゲーリスは上階へとつづく階段を昇った。この五十年間、彼はここに間借りしている。
上階の暗い部屋を慌ただしく歩き回る音が聞こえ、ランプの明かりが灯った。アゲーリスの助手、コーラムだ。窓から階段を登るアゲーリスに気づいたのだろう。彼は耳が聞こえない。

The Book of Ti'ana © 1996 Cyan, Inc.

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